尼子義久
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尼子 義久(あまご よしひさ、天文9年(1540年) - 慶長15年8月28日(1610年10月14日))は出雲の戦国大名。尼子晴久の嫡男。弟に倫久・秀久がいる。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期 | |||
生誕 | 天文9年(1540年) | |||
死没 | 慶長15年8月28日(1610年10月14日) | |||
別名 | 三郎四郎(幼名) | |||
諡号 | 友林 | |||
戒名 | 大覚寺殿大円心覚居士 | |||
墓所 | 山口県阿武町奈古の補陀山大覚寺 | |||
官位 | 右衛門督 | |||
氏族 | 尼子氏 | |||
父母 | 父:尼子晴久。母:尼子国久の娘 | |||
兄弟 | 弟:尼子倫久、尼子秀久 | |||
子 | 実子なし。養子:尼子元知 |
[編集] 生涯
天文9年(1540年)、出雲の戦国大名・尼子晴久の嫡男として生まれる。永禄3年(1560年)、父の晴久が急死したため、家督を継ぐ。 父の取っていた毛利氏との対決路線を変更し、室町幕府の仲介により和平をすすめようとしたが、毛利元就はこれを利用して、逆に尼子氏の攻略を画策し、和平の条件として石見への不干渉を申し入れた。この条件を義久が了承したため、元就の狙いどおり、尼子氏を頼みに毛利氏への反乱を起こしていた福屋氏が孤立し、また福屋氏へ軍事援助を行おうとしていた、本城常光、温泉英永、牛尾久清らの石見に駐屯していた尼子家臣や尼子方国人も不利な立場に立たされることとなった。
永禄5年(1562年)6月に本城常光が毛利氏へ寝返ると、温泉英永、牛尾久清は出雲へと退却し、また赤穴氏や三沢氏などの西出雲の有力国人衆も雪崩を打って毛利方へと転じた。この情勢を契機として、毛利元就は出雲へ侵攻を開始し、永禄6年(1563年)8月には白鹿城が毛利軍によって落城した。
永禄7年には伯耆江美城の落城により尼子氏の糧道がほぼ押さえられた。
永禄8年(1565年)からは遂に月山富田城(現在の島根県安来市)を包囲された(第二次月山富田城の戦い)。毛利軍は富田城へ総攻撃を開始したが、城の守りは堅く城兵の志気も旺盛で、損害ばかりが増えたため、攻撃を中止し兵糧攻めに切り替えた。 富田城内では次第に兵糧が欠乏し、志気が衰える中、尼子氏累代の重臣亀井・河本・佐世・湯・牛尾氏が次々と逃亡して毛利軍に降伏する。さらに永禄9年(1566年)に宇山久兼を義久が謀反の疑いにより誅殺するなど、城内は混乱の極みとなる。
このため同年11月28日、義久は月山富田城を開城し、毛利元就に降伏した。元就は義久とその弟たちの一命を助け、安芸円明寺に幽閉している。これによって、大名としての尼子氏は滅亡した。
その後、義久は天正17年(1589年)、毛利輝元より毛利氏の客分として遇され、安芸志道に居館を与えられた。慶長元年(1596年)、長門阿武郡嘉年の五穀禅寺において剃髪、出家して友林と号した。そのまま長門において慶長15年(1610年)8月28日に死去した。享年71。
義久には子が無かったため、弟の倫久の子である尼子元知を養子とした。
[編集] 人物
- 尼子氏の滅亡時の当主であったことから暗愚な人物と評価を受けており、上記の宇山久兼殺害も、大塚与三衛門の讒言を信じたためといわれている。また、尼子氏の旧臣が尼子勝久を盟主にして挙兵した際もそれに呼応して積極的に行動したという形跡は見られない。
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