山川竜司
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山川竜司 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 山川竜司 |
本名 | 山川征二 |
ニックネーム | 不自身 |
身長 | 176.5cm |
体重 | 90kg |
誕生日 | 1970年4月2日 |
出身地 | 北海道川上郡弟子屈町 |
所属 | 大日本プロレス |
デビュー | 1994年10月25日 |
山川 竜司(やまかわ りゅうじ、1970年4月2日 - )は、日本の男子プロレスラー。本名:山川 征二(やまかわ せいじ)、北海道川上郡弟子屈町出身、身長176.5cm、体重90kg。
目次 |
[編集] 経歴
1994年10月25日、神奈川・南足柄市体育センター、対ポイズン澤田戦にてデビュー。
以後、NOW(1994年)-東京プロレス(1994年-1995年)-大日本プロレス(1995年~)と、活躍の場を移してきた。
「不死身」という言葉を「不自身」と間違えて書いてしまい、以降彼の通り名として定着してしまった。
大日本では、シャドウWX・本間朋晃と共に、「新世代デスマッチファイター」として活躍。BJW認定デスマッチヘビー級王座も獲得してきた。
[編集] 事故から復帰・休養へ
2001年3月18日・博多スターレーン大会で試合中、ワイフビーターの場外へのパワーボムでフロアに後頭部を強打、頭蓋骨骨折により、意識不明の重体にまで陥った。
療養期間を経て、同年12月2日横浜アリーナ大会で復帰するも、後遺症による左半身麻痺と椎間板ヘルニアの併発で、思うような試合展開が出来ないばかりか、日常生活にも影響を及ぼしていた。特に、椎間板ヘルニアに至っては、腰を打ってMRI検査で発見されるまで、一切気付かなかったという始末。医師からも「ナメてたらエラい事になってた」とまで言われた。
実際、山川はそのような状態にまで陥っても、デスマッチを最後までやりこなしていた時もあったが、次第に容態が悪化。2004年9月26日の後楽園ホール大会を最後に 1年間の休養を取る事になった。
休養後は北海道に戻り、2004年12月1日、札幌・薄野でスナック「薄野プロレスYAMARYU」を開店。その傍ら、体調を戻す為、トレーニングに励み、大日本の札幌テイセンホール大会開催時には、団体のPR活動も行っていた。
1年経過の2005年10月14日、後楽園ホールを訪れたが、気持ちの整理がつかない事、万全な体調ではない事などを理由に、無期限へと切り替える事を発表した。
2006年5月5日・横浜赤レンガ倉庫大会前の記者会見。6月以降の桂スタジオ大会を実験的な大会と位置付け、新たにデスマッチファイターを公募する会見で、盟友シャドウWXから、「(山川が)桂スタジオに出てくるのも一つの手ではないか」と発言。
これに奮起した山川は7月、札幌の店を週末のみの営業とし、横浜・鴨居の道場に泊まり込んでの練習を開始。
2006年9月23日、越谷・桂スタジオ大会にて、兄貴分と慕う金村キンタローをパートナーに迎え、同期の黒田哲広・シャドウWXを相手に再起戦を行い、復帰を宣言。しかし、椎間板ヘルニアは完治していない為、実況席で見ていた統括部長・登坂栄児からは厳しい評価が下った。
10月の後楽園ホール大会で、FMW軍として黒田哲広・田中将斗と組んだ金村キンタローから、関本大介に一回田中将斗と組んでみる様に提案した際、「ダッサダサで、もうどうしようもないけど山川もおる!」と参加をほのめかし、これを受けて10月29日・札幌テイセンホールにて金村・黒田と組んで、関本・佐々木義人・田中との6人タッグマッチに出場。右肩手術の為に長期欠場が決まっていた田中将斗から、「お前も椎間板ヘルニアを治して第一線に戻れ」と提案された。
今後は体調面を考慮して、スポット参戦の形で継続参戦する。
[編集] 必殺技
- リバース・タイガー・ドライバー
- 現在は、葛西純がこの技を引き継いだ。
- 摩周・裏摩周(合体式の雪崩式ブレーンバスター)
[編集] 入場曲
ジャーニー・Separate Ways (Worlds Apart)
[編集] 薄野プロレスYAMARYU
- 休業後の2004年12月1日、札幌市に開店。
- 開店理由は、「試合もしないのに、団体に残る訳にはいかない。新たな生活基盤を築く為」。
- 毎月月末には、「山竜ちゃんこ会」と称して、特製ちゃんこ鍋の食べ放題を実施。
- 詳細
- 所在地:札幌市中央区南5条西6-7-5ニュー桂和ビル7F
- 営業時間:20:00~5:00