岡田米山人
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岡田米山人(おかだべいさんじん、延享元年(1744年) - 文政3年8月9日(1820年9月15日))は江戸時代後期の大坂を代表する文人画家であり、岡田半江はその子(養子説有り)である。
俗称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛(よねやひこべえ)と称し一説には彦吉とも称したという。名を国、字は士彦(しげん)、画号を米山人、米翁といった。
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[編集] 生涯
米山人の前半生の事績についてはほとんど伝わっていないため、その生まれについても、大坂説、神戸生田村 説、丹波八木説などがあって決定できていない。まだ両親、兄弟、先祖についても全くわかっていない。
28歳のときには既に大坂に居住して、寒山寺裏長池(現 大阪市北区曽根崎一丁目、曽根崎天神付近)で米屋を営んでいた。画号の米山人も稼業の由来と推考できる。米臼をひきながら読書し、余技に書画を嗜み、これが大坂中の評判となっていたらしい。彼は中国文人画を中心に独学で画業を修得した。39歳の時、子 半江が生まれる。妻は37歳の高齢であった。半江の号に小米を与えたが、米芾親子を意識したものと思われる。なお、半江はこの号の発音が小便に近いことからあまり好まなかったようだ。
天明2年のころ、商人でありながら伊勢国藤堂藩の下役として仕え、藤堂藩蔵屋敷内(現 大阪市北区天満橋2丁目)に移り住んだ。しかし、この職に就いていながら、稼業の米屋は廃業せず以降も継続し、のちに息子 半江に引き継がれている。どのような事情により身分制度の枠を超え武士に仕え、何の目的を持って移り住んだのかよくわかっていない。七里鎌倉兵衛が蔵屋敷の留守居(藩邸の最高責任者)であったがこの者の下役であったようだ。蔵屋敷の居宅の一部を画室として「正帆」と命名し、ここで多くの文人墨客と交わった。
65歳前後で下役を致仕し、半江にこの職を譲り、自らは源八渡し(現 大阪市北区天満橋2丁目)近辺の別宅に隠居した。懸案となっていた安積家の障壁画を半江と合作して完成させている。70歳を超えた頃に飲酒と煎茶を嗜むようになったようだ。75歳の時、長年連れ添った妻を亡くし大きな衝撃を受ける。死を迎えるまでの遺された2年間に書画の創作活動はもっとも旺盛となった。享年77。
学問・画ともに独学であったがそれだけに典籍・書画の蒐集品にこだわり、明清元画、漢詩の典籍、日本の古書画など膨大な量が息子 半江に遺されている。
[編集] 交遊
米山人は画業が評判になるとともに盛んに文人達との交流を深めた。親交の深かった木村蒹葭堂の『蒹葭堂日記』に米山人の名前が数十回も出てくる。当時、蒹葭堂を中心に文人のネットワークが存在しており、彼を介して多くの文人と知己になったと思われる。 米山人の居宅「正帆」には多くの文人が訪問している。田能村竹田、頼山陽、浦上玉堂、春琴、篠崎小竹、僧でありながら希代の蒐集家であった如意同人など。また隠棲先の源八渡しにも、中西石焦、十時梅厓、海量上人、森川竹窓、鼎春嶽、藤堂高基、秦宗春など多数の名前が見られ文人のサロンとなっていたようだ。
[編集] 画風
若き日の田能村竹田の才能を見ぬき、彼を激励している。竹田もまた米山人を師と仰ぎ、敬愛の気持ちを表している。竹田は著書『竹田荘師友画録』の中で「その画は拙なるに以て古、疎なるに以て厚、渾朴深潤なり」と米山人の作風を評価している。その意は年を取るごとに円熟し、独特の個性を大胆に表現する度肝を抜くような筆致、色鮮やかな彩色であることを褒めていると受け止められる。
米山人は明清元代の中国文人画を手本として、その画に写意を求め続けた。米芾、黄公望、倪雲林、沈石田、文徴明、伊孚九、董其昌、藍瑛、葉大年などの影響が見られる。木村蒹葭堂、十時梅厓とともに大坂文人画の重鎮とされている。
現在までに米山人の作品は200点程確認されている。
[編集] 主な作品
[編集] 出典
- 神山登「岡田米山人・半江父子の生涯」『古美術53』 三彩社、1977年、52-66頁。
- 森銑三「米山人のことども」『森銑三著作集』第4巻 中央公論社、1971年、256-258頁。(初出は『画説』1938年)
[編集] 関連文献
- 田能村竹田『竹田荘師友画録』
- 木村蒹葭堂『蒹葭堂日記』
- 細野要斎『感興漫筆』
- 宇都宮大潔『播磨奇人伝』
- 註 (森、1971年、256頁)に、第1巻「剱坂村 喜平治」に若き米山人がこの人物に仕えた記述があるとしているが(神山、1977年、53頁)は事実とは認められないとしている。