教職員組合
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教職員組合(きょうしょくいんくみあい)は、教職員が、経済的社会的地位の向上、及び教育現場の労働条件の改善や教育の質の向上を目的として結団する労働組合組織である。なお、公立学校に勤務する教職員が加入する場合は、地方公務員法上は職員団体とされる。
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[編集] 歴史
日本では、1919年8月に結成された啓明会(翌1920年、日本教職員組合啓明会と改称)が最初の教員組合として活躍した。本格的な教員の労働組合としては、1930年11月に結成された日本教育労働者組合(略称:教労)が、厳しい弾圧の中、子供の権利の擁護や戦争動員のための教育に抵抗する活動を、約3年半にわたり展開した。
[編集] 日教組の結成
第二次世界大戦後、急速に高揚した教職員組合運動を統合する形で、1947年6月に日本教職員組合(略称:日教組)が結成された。日教組のもとに統一された教職員は、1951年11月第1回教育研究大会を栃木県日光市で開催、スローガン「教え子を再び戦場に送るな」を掲げ、平和と民主主義の教育の推進に大きな力を発揮し、1958年の勤務評定反対闘争、1961年の学力テスト反対闘争などに取り組んできた。又、1957年には、組合員からの出資による研究機関として、「国民教育研究所」が設立された。
[編集] 全日教連
勤評闘争の過程で日教組を脱退した教員により保守系の日本教職員団体連合会(教団連)が結成され、日教組以外の教職員組合が存在することになった。一時期の分裂の後、1984年には再び大同団結が実現して全日本教職員連盟(全日教連)が発足し、現在に至っている。
[編集] 日高教の結成
日教組は発足以来、組合員の多い義務制学校重視の運動路線をとってきた。これに不満を持つ高等学校教員も多く、文部省の打ち出した高校教員優遇政策に乗り、約半数の組織が日教組から離脱し、日本高等学校教職員組合(略称:日高教)が1956年に結成された。間もなく日高教は分裂し、一ツ橋派(左派)と麹町派(右派)が鼎立する状態が長く続いた。
[編集] 全教の結成
1980年代後半、民間労組を中心に推進された労働戦線の統一問題は、共産党など左派勢力を徹底的に排除する方向性を明確にしていたため、左派が強い力を持っていた日教組は、その対応をめぐって大きな対立が生まれた。紆余曲折の末、1989年9月の定期大会で、同年11月に結成される運びとなっていた連合への加盟を決定したが、あくまでそれに反対する単組は日教組を離脱、全日本教職員組合協議会(全教)を結成、全労連に加盟した。全教は、同じく全労連に加盟した日高教一ツ橋派と組織統一し、1991年、全日本教職員組合(全教)が発足した。現在は、日教組(研究機関:国民教育文化総合研究所)及び全日本教職員組合(略称:全教、研究機関:民主教育研究所)が活動している。
[編集] それ以外の教職員組合
連合の結成に伴う、労働組合の再編の影響は、全教の結成に留まらなかった。千葉教育合同労組や、大阪教育合同労組、東京都学校ユニオンなど、日教組にも全教にも属さず、全国労働組合連絡協議会(全労協)に加盟する小規模の組合もいくつかの都道府県で誕生した。
[編集] 教職員組合の現状
現在、日本における教職員組合、特に日本教職員組合(日教組)や全日本教職員組合(全教)への風当たりはあまり良いとは言えず、マスコミなどにおいてたびたび批判される。また一部の人たちは、「日教組は戦後の自虐史観や教育の荒廃の原因」と主張する。このような主張がなされる原因には、思想やイデオロギーの違いがあることもさる事ながら、日教組や全教が様々な国の教育政策に反対していることが挙げられる。
また、北海道教職員組合は2006年12月のいじめ調査の際に、密かに組員に対し協力しないよう呼びかけていたことが判明し批判を浴びた。
[編集] 組織率
文部科学省発表による。
2004年:48.9%
2005年:47.5%
2006年:46.2%
最大の教職員組合である日教組は、そのうちの約6割(教職員全体の3割強)を占めている。
[編集] 主な教職員組合
下位に掲げるものは独立系の組合である。その他の組合は以下の組合に加盟しているか、小規模な独立系の組合である。
- 日本教職員組合(日教組)
- 全日本教職員組合(全教)
- 全日本教職員連盟(全日教連、自由民主党などを支持)
- 日本教師会(保守・右翼系)
- 日本高等学校教職員組合(日高教左派/一橋派)
- 日本高等学校教職員組合(日高教右派/麹町派)
- 全国大学高専教職員組合(全大教、国立・公立を中心)
- 日本私立大学教職員組合連合(日本私大教連)
- 各種学校専修学校関係労働組合連絡協議会(各専労協)
- 全国教育管理職員団体協議会(全管協)