斉藤きち
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斉藤きち(さいとうきち 1841年12月22日(天保12年11月10日) - 1891年(明治24年)3月25日)は、幕末、明治期の芸者。「唐人お吉」の名で知られる。尾張国西端村(現愛知県内海)出身。
船大工 斉藤市兵衛と妻きわの二女として生まれ、4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る。 7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習い、14歳で芸者となりお吉と名乗ったきちは瞬く間に下田一の人気芸者となる。
1858年、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦というものの概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。
当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持っており、外国人に身を任せることを恥とする風潮があり、幼馴染の婚約者もいることからお吉は固辞したが、役人の執拗な説得に折れハリスの下へ赴くことになった。当初、人々はお吉に対して同情的な目を向けていたが、羽振りの良くなっていくお吉に対し次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後、お吉は解雇され再び芸者となるがそれ以降も冷たい目を常に向けられることとなり、この頃から酒色に耽るようになる。
1868年、芸者を辞めかつての幼馴染と横浜で同棲するようになる。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。ますます酒に溺れるようになりそのため元婚約者と同棲を解消し三島で芸者となるがやはりまた下田に戻り芸者となる。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋を開くが、既にアルコール依存症となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。
その後数年間、物乞いを続けた後51歳で投身自殺。下田の人間は死後もお吉に冷たく斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否し、哀れに思った宝福寺の住職が境内の一角に葬った。
1998年、サザンオールスターズのアルバム『さくら』に収録された『唐人物語 (ラシャメンのうた)』は斉藤きちをテーマにしたものである。桑田佳祐作詞の作品で、こうした歴史上の人物を歌詞の題材に扱うのは珍しい例である。