桑田佳祐
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桑田佳祐 | ||
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基本情報 | ||
本名 | 桑田佳祐 | |
愛称 | ケイちゃん | |
生年月日 | 1956年2月26日 | |
血液型 | A型 | |
学歴 | 青山学院大学経営学部 除籍 | |
出身地 | 神奈川県茅ヶ崎市 | |
ジャンル | ロック, J-POP | |
職業 | シンガーソングライター | |
担当楽器 | ボーカル、ギター | |
活動期間 | 1978年~現在 1986年 (KUWATA BAND) 1987年~1988年 1993年~1995年 2001年~2002年 (ソロ) |
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レーベル | ビクタータイシタ | |
事務所 | アミューズ | |
共同作業者 | サザンオールスターズ | |
影響 | ビートルズ ジョン・レノン エリック・クラプトン リトル・フィート ボブ・ディラン |
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公式サイト | STANDOOH! AREEENA!! C'MOOOON!!! |
桑田 佳祐(くわた けいすけ、1956年2月26日 - )は、神奈川県茅ヶ崎市出身の日本のロックミュージシャン、シンガーソングライター。サザンオールスターズのリーダーであり、ボーカル・ギターと作詞・作曲を担当。所属事務所はアミューズ、レコード会社はビクターエンタテインメントタイシタレーベル所属。嘉門 雄三(かもん ゆうぞう)、桑竹居助(くわたけ いすけ)、夷撫悶汰(いヴ もんた)、古賀紅太(こが こうた)などの変名を用いたこともある。
鎌倉学園高等学校卒業、青山学院大学経営学部除籍。身長169.5cm。A型の右利き。通称:「ケイちゃん」「桑っちょ」。妻は同じサザンのメンバーである原由子。1982年に結婚し、これまでに2男をもうける。
目次 |
[編集] 人物
サザンオールスターズのリード・オフ・マンとして知られている。『いとしのエリー』、『真夏の果実』、『TSUNAMI』などヒット曲を数多く作り、歌う。その独特なハスキーボイスは稀有で、一度聞いたら忘れられない不思議な魅力を持つ。灰汁の強い嗄れ声も、泣かせる美声もどちらも出せる稀代のボーカリストである。作詞では愛、セックス、世相を風刺的に表現し、時にエロティックであり、時にユーモラス・ナンセンスであり、時に切なく泣かせ、時にシリアス。楽曲それぞれで様々なタイプの歌詞を書く。ソロでの音楽活動も精力的で、メジャーデビュー以来一貫して邦楽 (J-POP)の第一線を爆走し続ける。音楽雑誌『ロッキング・オン』からは、ポップスの神なる称号を授与されている。自ら名乗る事はないが、ミュージシャンとしてだけでなく、日本が誇るエンターテイナーの1人としても挙げられる。
青山学院大学在学中よりバンド活動を盛んに行い、「温泉あんまももひきバンド」「脳卒中」「ピストン桑田とシリンダーズ」「青学ドミノス」など多くのバンドを結成しては潰しを繰り返し、最後に結成したサザンオールスターズが現在まで続く。「サザンオールスターズ」というバンド名は友人がつけたもの。
プロレスファンでアントニオ猪木を敬愛している。猪木とは幾度か共演も果たしている。ライブの煽りではスタン・ハンセンの決め台詞「ウィー!」や、猪木の決め台詞「1、2、3、ダー!」を叫ぶのが定番。
サザンが実力派バンドとして認知されてからも、本人は一貫して下ネタ好きの三枚目なキャラクターを通しており、ある意味ミュージシャンらしくない気取らない性格がファンから愛されている。特にライブでの客席に向けての「乳首見せろ!」「パンツ脱げ!」などのセクハラ発言や、マイクを股間にはさむなどのパフォーマンスは、日本を代表するミュージシャンという自らの名声を笑い飛ばすかのような痛快さに満ちている。特に自身のラジオ番組桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド~やさしい夜遊び~では毎週のごとく下ネタを連発している。
ライブや音楽番組では、高い頻度で歌詞を間違える事がファンの間では知られる。ライブで歌詞や段取りをよく間違えることは本人も自覚しているらしく、「間違えた時はスタッフを睨みつけてスタッフのせいにする」と自らコメントしていたが、視聴者向けのネタなのか本音なのかは不明。
レコーディングなどではギターを担当することが殆どだが、時にベース、ドラムス、キーボードなども演奏するマルチプレイヤーでもあり、特にソロ名義の『素敵な未来を見て欲しい』や『MUSIC TIGER』などは桑田1人ですべての楽器が演奏されている。
ギタリストとしてクローズアップされる事は比較的少ないが、ボトルネックによるスライドギターの名プレイヤーとしても知られ、サザンのライブでも曲の間奏で度々その姿を確認する事が出来る。
1980年代~1990年代前期まで、ライブや音楽番組などでは時にステージに寝転がったり飛び跳ねたりの不可解で激しい、過剰とも言えるパフォーマンスが特徴であった。MCや曲中の煽りなども所謂「縦ノリ」の男臭いロックミュージシャンらしい姿が見られていたが、1993年~1995年辺り(実母が闘病ののち亡くなった時期と重なるとも言われる)を境に、「おどけた中年オヤジ」としてのキャラクターを前面に出すようになり、ライブやラジオ番組でも下ネタやオヤジギャグを連発する事も多くなった。どちらの桑田のキャラクターを好むかはファンの意見が分かれる所である。近年は激しい動きは少なくなった反面、ギターのソロプレイを魅せる割合が多くなり、加齢と共に味わい深いギターを聴かせている。かつてはライブ終盤での客席への紙コップの水撒きも定番であったが、やはり最近は行っていない。
曲作りは殆どが曲先であり、デタラメ英語等での仮歌段階のまま編曲までほぼ全てを終わらせたのち、仮歌の語感を崩さない言葉を選び、そこから歌詞全体のテーマ・世界感を決める。その為、日本語・英語ともに文法的には間違っている歌詞も多々あり、間違いを指摘されたり「意味が分からない」等と批判される事もあるが、文章の正確さよりも語呂の良さ・符割などを優先させるが故の結果である。古文・方言・都都逸も用い、メロディに合う言葉がないのなら造語で自分で作ってしまう等の離れ業もやってのける。韻を踏んだ歌詞作りは、現在のJ-POPやラップなどが隆盛を誇る遥か以前から行われている、桑田の十八番芸である。 また、英語と日本語とのダブル・ミーイングも取り入れており、楽曲は歌詞カードも含めての作品なので、歌詞カードもじっくり読んで欲しいとの思いも込められている。
作詞の際には作品中やタイトルに人名を登場させることも多い。特定の人物を讃えた曲もあるが、名前のみを身近な人物または縁の人物の中などから、歌詞全体とメロディーに合う語感として引用し、特定の人物は指していない場合が多い。前者は『吉田拓郎の唄』『星空のビリー・ホリデイ』『Dear John』『唐人物語』など。後者は『いとしのエリー』『チャコの海岸物語』『そんなヒロシに騙されて』『MARIKO』『シュラバ★ラ★バンバ』『可愛いミーナ』他多数曲で使われている。
サザンとソロそれぞれの活動を数年毎のローテーションで行い、どちらともセールス・ビジネス的にも成功を維持し続ける事が出来る稀有なミュージシャンだが、それゆえ、コアなファン以外にはサザンとソロとの活動の違いが分かり難い場合も多い。この質問疑問に対し桑田は、サザンのメンバーやサザンとしての活動は家族・家庭であり、ソロ時のサポートメンバー及びソロとしての活動は愛人と逢っているようなものと例え、サザンの楽曲やソロの楽曲はそれぞれの間で生まれた子供達だという、男女の愛と性をリアルに唄う桑田ならではの表現をしている。また、プロレスラーの武藤敬司にも例え、サザンの時は素顔の武藤として戦い、ソロの時は覆面を被ってグレート・ムタとして戦うとも表現している。
また、ソロ名義で出演するライブやフェスティバル、単独名義で行っている自身のラジオ番組のライブなどではサザン名義の楽曲も演奏されることがある。この点に関しファンからは「ソロのライブでサザンの曲を唄わないで欲しい」との意見もあったが、その意見に対し桑田は「ファンの気持ちも分かるんですけど、『唄ったっていいじゃん、どっちでもいいじゃん』て思う時も実はあるんですよね」とインタビューで応えている。ソロ名義で行うワンマンライブやツアーでは、基本的にサザン名義の楽曲が歌われることは少ない。
[編集] 概要
バンド活動と平行したり休業しつつソロ活動を行っているが、活動期によりテーマやコンセプトを大きく異なることでサザンオールスターズとの活動とは特に一線を画している。
1986年のKUWATA BAND結成時には、桑田が「ロックを唄うのは英語しかない」と考えが行き着いた頃で、英語詞の洋楽テイストに拘っていたこともある。その結果、KUWATA BAND唯一のスタジオアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』は、日本語詞中心に構成されたシングル曲は一切未収録とし、全曲新曲の全英語詞アルバムになった。しかし、発売後暫くは自身も完成度に満足していない旨の発言が目立っていた。その後考え方に変化が見られたのか、現在ではソロ名義のコンサートでKUWATA BANDの楽曲が演奏されることも多くなっている。
1987年~88年の第1期ソロ活動では、ミュージックシーケンサープログラミングや打ち込み中心のポップス路線を展開。1993年~94年の第2期ソロ活動は、内省的な歌詞を用いたアコースティック(アンプラグド)・フォーク路線など、サザンとの差別化を図る。
2001年からも第3期のソロ活動が始まるが、特に前半の2001年は逆に差別化には拘らなくなった。この時はサザンでのメンバー脱退による移行があったため、もともとサザン名義で発表する予定だった楽曲をソロ名義で発売したものもある。また、逆にソロワークとして製作していた楽曲を、サザンとしてカラーやアレンジを加えて発表した曲も生まれている(恋するレスポール等)。後半の2002年は、バンド形態の本格派ロックをコンセプトにしており、特にサザンでの活動との差が色濃く出ている。CMタイアップとの関係で思い切りポップ寄りな曲に挑戦した2001年に対し、2002年に発売された作品はシングル・アルバム共に歴然とテーマの違いが出ている。2001年に発表された楽曲はアルバムに収録されることなく、ソロ活動の集大成として発表されたベストアルバムに収録された。これ以降ソロ活動は基本的に休止中であり(ライブなど除く)、現在はサザンでのバンド活動が続いている。
[編集] 略歴
ここでは桑田佳祐のソロ活動に重点を置いて説明する。サザンオールスターズなどバンドとしての活動は各ページを参照のこと。
- 1956年
- 1977年
- 1978年
- 1979年
- 「オールナイトニッポン」(ニッポン放送などNRN全国ネット)木曜1部を担当。
- 1980年
- 1981年
- 1982年
- 2月26日、原由子と入籍。28日には結婚披露宴も行う。会場にはファンを招待し、タモリ、ラッツ&スターなどの芸能人も出席した。
- 小林克也率いる「ザ・ナンバーワン・バンド」の1stアルバム『もも』にて曲を提供。また『六本木のベンちゃん』ではボーカルも担当。
- 中村雅俊に『恋人も濡れる街角』を提供。
- 12月31日、NHK紅白歌合戦での三波春夫パフォーマンスが物議を醸す。『チャコの海岸物語』でサザンとして2度目の紅白出場を果たした際のものであり、当時の「紅白=厳粛な雰囲気」という等式を打ち破るきっかけとなった。この時の間奏での桑田の発言は以下のとおり。
「国民の皆様、ありがとうございます。私たち放送禁止もたくさんございますが、こうしていけしゃあしゃあとNHKに出演させて頂いております。とにかく、受信料は払いましょう! 裏番組はビデオで見ましょう!!」 - 研ナオコが歌った「夏をあきらめて」で第24回日本レコード大賞作曲賞受賞。
- 1983年
- 親交ある明石家さんまが「オレたちひょうきん族」で演ずるアミダばばあのために、『アミダばばあの唄』を提供する。
- 高田みづえがカバーした『そんなヒロシに騙されて』が第25回日本レコード大賞・金賞を受賞。
- 1984年
- 「オールナイトニッポン」に復帰。火曜1部を担当する。
- 1985年
- 1986年
- 原の産休に伴いサザンは最初の休業期間に入り、各メンバーのソロ活動がはじまる。
- 4月、1年限定のソロプロジェクト「KUWATA BAND」結成、『BAN BAN BAN』でデビュー。桑田は音楽番組やライブで度々「新人です!」と強調していた。
- 12月24日、クリスマス・イヴの夜の生放送番組「メリー・クリスマス・ショー」 (日本テレビ系)をプロデュース。同番組で松任谷由実との共作『Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)』を出演者一同で唄う。
- 1987年
- 10月6日、ソロデビューシングル『悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)』発売。以降ソロでの活動が続く。
- ダリル・ホール&ジョン・オーツと「SHE'S A BIG TEASER」(シングル『いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)』収録)・『REALOVE』(ホール&オーツのアルバム『Ooh Yeah!』収録)を共同レコーディング。
- 12月24日、前年に続き「メリー・クリスマス・ショー」プロデュース・出演。
- 1988年
- 3月16日、2ndシングル『いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)』発売。
- 4月21日、河内淳一のアルバム『One Heart』に収録されている『Day After』と『恋に落ちた日 ~ANYDAY YOU LOVE ME~』にコーラスで参加。
- 6月25日、『みんなのうた』で、サザンでの活動を再開させる。
- 7月9日、1stソロアルバム『Keisuke Kuwata』発売。
- 8月、RCサクセションの問題作アルバム『COVERS』に参加。この時には桑竹居助なる変名でクレジットされている。この名義は1984年にサザンのファンクラブ会報『代官山通信』の署名でも使用されていた。
- 10月、山下達郎のアルバム『僕の中の少年』収録の『蒼氓』に原由子と共にコーラスで参加。
- 10月14日、ダリル・ホール&ジョン・オーツの東京ドームでのライブに飛び入り出演。
- 12月31日、『Keisuke Kuwata』で第30回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞。
- 1989年
- 1990年
- 4月、NHK-FMにてラジオ番組『ミュージック・スクエア』スタート。火曜日のDJを担当。民放での番組とは違い下ネタなどの過激な発言は無かったものの、ゲストミュージシャンとのトークや、リスナーからのの投稿ハガキを読む『日本四方山話のコーナー』『句会のコーナー』、洋楽を1曲ピックアップし和訳を読み上げる『訳詞のコーナー』、テーマに添ってベスト3の楽曲を紹介する『My Count Down』などのコーナーが人気であった。毎年年始には原由子も出演。1993年4月で担当を終了。
- 7月、『稲村ジェーン』クランク・アップ。映画公開までに、宣伝を兼ねて歌番組の他、ワイドショー・ニュース・トーク番組などに積極的に出演。また、試写会を藤沢市の海岸で行い、桑田も会場に登場し『恋はお熱く』を唄う。
- 9月7日、『稲村ジェーン』公開。内容はファンのみならず賛否両論を呼んだ。
- 第32回日本レコード大賞のポップス・ロック部門において、ロック・ゴールド・ディスク賞、最優秀ロック・ボーカル賞、作曲賞を受賞。大賞にノミネートした「真夏の果実」は最終選考で「おとるポンポコリン」との一騎打ちに敗れる。
- 1991年
- 3月24日~26日、新宿のライブハウス「日清パワーステーション」で、洋楽ロックのスタンダードナンバーをアンプラグドで演奏する「アコースティック・レボリューション」を行う。メンバーは小倉博和、小林武史、キース、など多彩な顔ぶれ。
- 6月、小林武史・小倉博和・今野多久郎と共にゲリラライブを兼ねて中国・北京へと渡り、天安門広場にてボブ・ディランの「風に吹かれて」、SUPER CHIMPANZEEのオリジナル曲「クリといつまでも」、北京の某ライブハウスにてビートルズの「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」等を演奏した。この模様は後に桑田が出演した筑紫哲也 NEWS23などで放送された。この旅行は翌年のサザンの北京ライブへと繋がる。
- 9月26日、SUPER CHIMPANZEE名義で『クリといつまでも』発売。
- 1992年
- 6月27日、企画アルバム『フロム イエスタデイ』発売。KUWATA BAND時代のシングル4作が初CD化での収録となる。
- 1993年
- 10月6日、3rdシングル『真夜中のダンディー』を発売。サザン活動中のソロ名義でのリリース。
- 12月1日、世界エイズデーであるこの日、多数のアーティストを集めた「AAA~アクト・アゲインスト・エイズ」武道館公演を選曲・プロデュースし自らも出演。出演は泉谷しげる・大友康平・アン・ルイス・渡辺美里・福山雅治・原由子など、メリー・クリスマス・ショーにも匹敵する豪華な顔ぶれだった。バックバンドとして小林武史・小倉博和・根岸孝旨・小田原豊・今野多久郎が集い、昭和歌謡曲を中心に多彩なアレンジで参加者がリレー形式で唄った。また、桑田・奥田民生・宮田和弥(当時JUN SKY WALKER(S))・奥居香(当時プリンセス・プリンセス)をメインボーカルに、このライブの為に作られたチャリティーソング『光の世界』が唄われた。この後様々なアーティストが集う形式はAAAで恒例化して行くが、桑田がプロデュースしたのはこの1度きりである。昭和歌謡を多彩なアレンジで唄う形は後々の活動の原形となった。特にこのライブで初めて唄われた「ヨイトマケの唄」はその後のソロライブや自身のテレビ番組などでも度々唄われることとなる。
- 1994年
- サザン2度目の休業期間に入る。
- 8月24日、4thシングル『月』発売。CD店などの告知ポスターには「桑田佳祐、今年は一人で歌います」とのコピーの煽りがあった。後年香港でジャッキー・チャンによるカバー曲が発売され大ヒット。
- 9月23日、2ndアルバム『孤独の太陽』発売。収録曲『すべての歌に懺悔しな!!』が、矢沢永吉と長渕剛を揶揄しているとされ問題となり、桑田が「あれは自分を含めた芸能ロックミュージシャンを歌ったもの」と釈明し、2人に対して謝罪。矢沢は「全く気にしてない。それより桑田君の方は大丈夫か?」と大人の対応をするが、長渕は『views』誌上にて「俺は桑田佳祐を許さない!」などとコメント。ファン、マスコミを巻き込んでの一大論争に発展。その直後、長渕が大麻の不法所持で逮捕され、なし崩し的に沈静化する。詳しくはすべての歌に懺悔しな!!による論争を参照のこと。
- 9月~12月、初のソロ名義全国ツアー「さのさのさ」開催。全国各都市で、サザンでは長らく行われていなかったホール・市民会館などの小規模の会場でのライブでファンを喜ばせる。ツアー期間中の10月28日には母校である青山学院大学において「帰って来た青山のダンディー」と題し、学園祭ライブも行う。この日は通常のセットリストに加え、原・関口と共に、母校の思い出を綴った『Ya Ya (あの時代を忘れない)』を唄う。
- 10月31日、5thシングル『祭りのあと』発売。
- 12月1日、AAA武道館公演に、出演者の1グループとしてサザンが登場しオリジナル曲5曲を演奏。ソロ活動中の同年において、久々にバンドとして、更に休養中の関口和之も復帰し、6人揃っての登場となりファンを喜ばせた。また、桑田佳祐&Mr.Childrenとしても『奇跡の地球』を初披露。
- 12月31日、「月」で第36回日本レコード大賞・優秀賞を受賞、『孤独の太陽』でアルバム大賞受賞。ソロツアー「さのさのさ」最終日、横浜アリーナにおいて年越しカウントダウンライブ。
- 1995年
- 1月23日、共に編曲などで交流のあった小林武史との縁により、Mr.Childrenと桑田佳祐&Mr.Children名義で『奇跡の地球(ほし)』をチャリティーシングルとしてリリース。前年AAAで披露されていただけに、ファン待望の作品化となった。
- 4月、「桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド~やさしい夜遊び~」(TOKYO FMなどJFN全国ネット)スタート。自身がパーソナリティを務め、現在も続く長寿番組になっている。
- 12月1日、Act Against AIDS'95をタイのバンコクにて開催。小林武史や小倉博和らと共に「真夏の果実」「悲しい気持ち (Just a man in love)」の他、ビートルズやジョン・レノンのナンバーなど計7曲を歌う。
- 12月31日、横浜アリーナで行われた岸谷五朗主催のアミューズのイベント『THE VARIETY III 異業種共演 大晦日の宴 ~FOR AAA』に出演。サザンとしての年越しライブに替わる出演で、桑田はカウントダウンの直前に登場。爆風スランプの演奏で「勝手にシンドバッド」を唄い1996年を迎えた。また、出演者の石橋貴明・唐沢寿明・岸谷五朗と共に「ゴロー&センズリッターズ」として桑田の書き下ろしの曲『長嶋は教祖なんかと違います』を唄い、唐沢は本業とは違うコミカルな一面を見せた。カウントダウンの瞬間は残念ながら年が明けるよりも数十秒も早く曲が終わってしまい、年が明けるまで出演者がMCのみで会場を煽ったが、かなり間の悪いものになってしまった。これは年を跨ぐ瞬間に合わせて演奏・演出など全てを合わせるのが非常に難しい事を表しており、サザンでの年越しライブが時間調整などを含めていかに高いレベルでライブが作られているのか改めて分かる結果ともなった。
- 1996年
- 1997年
- 9月、サザンが影響を受けたバンドであるリトル・フィートのギタリスト、ローウェル・ジョージのトリビュート・アルバム『ROCK AND ROLL DOCTOR』のレコーディングのため渡米。「日本人でリトル・フィートのカバーを任せられるのはこの人だけ」と、唯一の日本人ボーカリストとして抜擢され「LONG DISTANCE LOVE」を歌った。10月には同アルバムが日本でもリリース。
- 10月、桑田がAAAで『サルビアの花』などをカバーした事もある早川義夫に、書き下ろしの新曲『アメンボの唄』を提供。作詞曲の他、ギター・コーラスでレコーディングに参加。テレビ朝日系バラエティー番組『人気者で行こう!』エンディングテーマに起用され、早川と共に桑田も番組のエンディングに出演していた。
- 「アクト・アゲインスト・エイズ'97 ~歌謡サスペンス劇場~」にて長らく放送禁止曲とされてきた岡林信康の『チューリップのアップリケ』を熱唱。その模様は深夜とはいえテレビで放映された。
- 2000年
- 2001年
- サザン三度の休業期間に入り、各メンバーソロ活動を開始。
- 7月4日、6thソロシングル『波乗りジョニー』発売。発売に合わせ、地方都市でFMラジオ公開生放送と、ライブ『古賀紅太NoReason!ライブハウスツアー』とを同時進行の形で行う。ラジオ放送は各地で数千人もの観客を集め好評を得た。ライブはサザンとしての全国ツアーに替わる企画で、佐賀・青森・奈良など、それまでツアーで行く事が少なかった土地でも行われ地方ファンを喜ばせた。
- 8月7日、ラジオ番組内で、大森隆志のサザン脱退を発表。「プロになる気は無かったメンバーをまとめ、プロの世界に導いたのは大森。彼がいなければ自分達は世に出る事は無かった」と語る。
- 10月24日、7thシングル『白い恋人達』発売。桑田ソロ名義のシングル最高売上を記録。
- 12月6日、やまだひさしのラジアンリミテッドの企画でGLAYと競演。この模様は「桑田佳祐 meets GLAY スーパーFM」としてOAされた。最後はジョン・レノンの『Happy Xmas (War Is Over)』をGLAY、番組スタッフを交えて全員でセッション。
- 12月22・23・24日、札幌市の月寒グリーンドームでクリスマスライブ開催。当初は札幌ドームを借りるつもりでいたが計画したときには既に埋まっており、ライブのMCで月寒ドームになってしまった事をぼやいていた。ライブではサザン・ソロ・KUWATA BANDの楽曲の他、『サンタが街にやってくる』『赤鼻のトナカイ』等のクリスマスソングも唄われた。また、24日のライブ終了後にはフジテレビ系『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』のクリスマス特番の生中継も入り、会場の外で一面の雪とライブを見ていたファンに囲まれ『白い恋人達』をピアノ弾き語りで唄った。31日、「白い恋人達」が第43回日本レコード大賞金賞受賞。最有力候補だったが授賞式を欠席。大賞は浜崎あゆみに。
- 2002年
- 『波乗りジョニー』『白い恋人達』の2作で、第16回日本ゴールドディスク大賞 ソング・オブ・ザ・イヤー受賞。
- 6月26日、8thシングル『東京』発売。ファンクラブ誌上にて「石原慎太郎に物申すみたいな気持ちで作った」とコメント。
- 8月10日、茨城県ひたちなか市で行なわれた邦楽ロックの音楽祭・ROCK IN JAPAN FESTIVALに参戦。2日目のトリを務める。未発表の新曲『BLUE MONDAY』『東京ジプシー・ローズ』(翌月発売のアルバムに収録)他、全14曲を熱唱。
- HOUND DOGのSHIBUYA-AXでのライブに飛び入り出演。大友康平とサザン初期の楽曲、『熱い胸さわぎ』収録の『恋はお熱く』を歌う。
- 9月22日、スペースシャワーTVの日比谷野外音楽堂でのライブイベント『SWEET LOVE SHOWER』にトップバッターで出演。当日までシークレット扱いで一般には一切知らされておらず、観客を驚かせた。桑田はプロレスの覆面を被って登場し、全5曲を歌唱。
- 9月26日、3rdアルバム『ROCK AND ROLL HERO』発売。
- コンサートツアー「けいすけさん、色々と大変ねぇ。」スタート。ソロアーティストとして初めて全国5大ドームツアーを開催。
- 11月27日、初のソロベストアルバム『TOP OF THE POPS』発売。ソロ名義で1980年代、1990年代、2000年代と3世代に渡ってオリコンアルバムチャート1位を達成。3世代以上での1位は男性ソロでは長渕剛(1970年代を含め4世代)、井上陽水(3世代)に次ぐ3人目の快挙。
- 2003年
- 『東京』で第17回日本ゴールドディスク大賞 ソング・オブ・ザ・イヤー受賞、『ROCK AND ROLL HERO』と『TOP OF THE POPS』の2作がロック & ポップ・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
- 2月、『東京』が「SPACE SHOWER Music Video Awards 03」BEST VIDEO OF THE YEARを受賞。
- 7月23日、『涙の海で抱かれたい~SEA OF LOVE~』をリリースしサザンでの活動を再開。復帰後はバンドとしての活動を継続中。
- 11月、桑田の息子が通う中学校の学園祭でシークレットライブを行い、『勝手にシンドバッド』『涙の海で抱かれたい』等を歌った。この模様は女性週刊誌で報じられた。バンドメンバーは桑田の他に原や小倉博和・三沢またろう。4人とも学校の制服を衣装としていた。
- 2006年
- 7月17日、ゆかりのある小林武史、Mr.Childrenの桜井和寿らが主催する「ap bank fes'06」にソロとして出演。最終日となるこの日は、桜井と1995年に発売された『奇跡の地球』を11年ぶりにセッションし、話題となった。ソロでの出演であったが、サザン名義での楽曲『いとしのエリー』『真夏の果実』も披露した。
- 8月26・27日の2日間、桑田がサザンを中心としてアミューズ所属のアーティストに呼びかけ、初の自身主催となる野外フェスティバル「THE 夢人島 Fes.2006」を開催。アミューズ外からもGLAY、Mr.Children、Dragon Ash、更には加山雄三など桑田とゆかりのあるアーティストがスペシャルゲストとして出演。
- 12月2日、Act Against AIDSに出演。テーマを「星条旗よ永遠なれ!? ~私のアメリカン・ヒーローズ」とし、桑田が影響を受けた1960~70年代のアメリカンミュージック37曲を熱唱した。
- 2007年
[編集] 作品
→サザンオールスターズのディスコグラフィ、KUWATA BAND、SUPER CHIMPANZEE、桑田佳祐&Mr.Childrenも参照のこと。
[編集] シングル
1st | 1987年10月6日 | 悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE) | EP 8cmCD |
VIHX-1725 VDRS-1001 |
2nd | 1988年3月16日 | いつか何処かで (I FEEL THE ECHO) | EP 8cmCD |
VIHX-1731 VDRS-1010 |
3rd | 1993年10月6日 | 真夜中のダンディー | 8cmCD | VIDL-170 |
4th | 1994年8月24日 | 月 | 8cmCD | VIDL-201 |
5th | 1994年10月31日 | 祭りのあと | 8cmCD | VIDL-202 |
6th | 2001年7月4日 | 波乗りジョニー | EP 12cmCD |
VIZL-60 VICL-35300 |
7th | 2001年10月24日 | 白い恋人達 | EP 12cmCD |
VIJL-60090 VICL-35330 |
8th | 2002年6月26日 | 東京 | EP 12cmCD |
VIJL-60095 VICL-35380 |
9th | 2007年5月16日 | 明日晴れるかな | 12cmCD | VICL-36600 (初回版) VICL-36601 (通常版) |
[編集] 再発盤
2001年6月25日 | 1st~5thシングルまでリマスタリング12cmマキシ化再発(VICL-35305~35310) |
[編集] アルバム
[編集] オリジナルアルバム
1st | 1988年7月9日 | Keisuke Kuwata | LP CD |
VIH-28333 VDR-1520 |
2nd | 1994年9月23日 | 孤独の太陽 | CD | VICL-55 |
3rd | 2002年9月26日 | ROCK AND ROLL HERO | LP (2枚組) CD |
VIJL-60101~60102 VICL-60920 |
[編集] ベストアルバム
1st | 1992年6月27日 | フロム イエスタデイ | CD | VICL-300 |
2nd | 2002年11月27日 | TOP OF THE POPS | CD (2枚組) | VICL-61006~61007 |
[編集] その他アルバム
ライブ盤 | 1982年3月2日 | 嘉門雄三 & VICTOR WHEELS LIVE! | LP | VIX-1001 |
[編集] 再発盤
1992年6月27日 | 1st再発(VICL-8061) |
2001年6月25日 | 1st、2nd+「フロム イエスタデイ」リマスタリング再発(VICL-60804~60806) |
[編集] DVD/ビデオ
ライブビデオ | 1991年10月2日 | Acoustic Revolution Live at Nissin Power Station 1991.3.26 | VHS LD DVD |
VIVL-49 VILL-43 VIBL-44 |
ライブビデオ | 1994年12月21日 | すべての歌に懺悔しな!! -桑田佳祐LIVE TOUR '94- | VHS LD DVD |
VIVL-140 (VHS初回) VIVL-141 (VHS通常) VILL-99 (LD初回) VILL-100 (LD通常) VIBL-45 |
ライブビデオ | 1997年3月5日 | 夷撫悶汰(いヴもんた)レイト・ショー ~長距離歌手の孤独 in Jazz Cafe~ | VHS DVD |
VIVL-200 VIBL-6 VIBL-46 (DVD再発) |
PV集 | 2002年12月11日 | 桑田佳祐ビデオクリップス2001~2002 D.V.D. WONDER WEAR | VHS DVD |
VIVL-270 VIBL-67 |
ライブビデオ | 2003年3月26日 | 桑田佳祐ライブビデオ「けいすけさん、ビデオも色々と大変ねぇ。」 | VHS DVD |
VIVL-286 VIBL-109 |
[編集] 楽曲提供
- 高田みづえ
- 『私はピアノ』(1980年)
- 『蒼いパリッシュ』『そんなヒロシに騙されて』(1983年)
- 中村雅俊
- 『マーマレードの朝』(1980年)
- 『恋人も濡れる街角』『おまかせください(ナカムラ・エレキ音頭)』(1982年)
- スペクトラム
- 『MOTION』(1980年)
- Lord,Lord,Lawdy Miss Clawdy Group
- 『すてきなトランスポーテイション』『Spin Love』『シュールなるなぎさ1963』(1980年)
- タモリ
- 『狂い咲きフライデーナイト』『スタンダード・ウイスキーボンボン』(1981年)
- 高樹澪
- 『恋の女のストーリー』『MIO-SUN』(1981年)
- 小林克也&ザ・ナンバーワンバンド
- 『六本木のベンちゃん』『ブルースだ~れ!』『My Peggy Sue』(1982年)
- 『茅ヶ崎は今日も黄色い』『プロレスを10倍楽しく見る方法 ~今でも豊登を愛しています』(1983年)
- 研ナオコ
- 『夏をあきらめて』(1982年)
- 上田正樹
- 『Miss You Baby』(1983年)
- アミダばばあ&タケちゃんマン
- 『アミダばばあの唄』(1983年)
- キンヤ
- 『Let It Boogie』『タバコロードにセクシーばあちゃん』(1984年)
- ジューシーフルーツ
- 『萎えて女も意志をもて』『海』(1984年)
- 増田恵子
- 『女優』(1984年)
- 長山洋子
- 『シャボン』(1984年)
- 宮本典子
- 『海』(1984年)
- 明石家さんま
- 『さんまのまんま』(1987年)
- 古舘伊知郎
- 『夢見る頃を過ぎても』(1988年)
- 村田陽一
- 『クロス・タウン・トラフィック』(1993年)
- おおたか静流
- 『月(ZENTARO WATANABE MIX)』(1997年)
- 早川義夫
- 『あめんぼの唄』(1997年)
- YUKIKO
- 『真夏の果実~Slow Dance Version~』『真夏の果実~Ragga Mix Version~』(1998年)
[編集] 映画
- 稲村ジェーン(1990年、東宝)※監督
- アメリカン・グラフィティ ※TV放映(日本語吹替)の際、ウルフマン・ジャックの声を担当(小林克也が同役を担当したバージョンもあり)。
[編集] ライブ・コンサートツアー
年 | 形態 | タイトル | 公演日程 | 公演箇所・公演数 | 会場 |
1981年 | 単発コンサート | 嘉門雄三 & Victor Wheels | |||
1991年 | 単発コンサート | アコースティック・レボリューション | 3月24日~3月26日 | 日清パワーステーション | |
1994年~1995年 | コンサートツアー | 桑田佳祐 LIVE TOUR '94 -さのさのさ- | 9月29日~1月1日 | 全国29都市35公演 | 静岡市民文化会館、熊本市民会館、鹿児島市民文化ホール、福岡サンパレス、九州厚生年金会館、大宮ソニックシティ、新潟県民会館、群馬県民会館、仙台サンプラザホール、岩手県民会館、日本武道館、アクトシティ浜松、神戸国際会館、京都会館第一ホール、石川厚生年金会館、福井フェニックスプラザ、長野県民文化会館、宇都宮市文化会館、郡山市民文化センター、アスティとくしま、香川県民ホール、広島厚生年金会館、岡山市民会館、徳島市文化会館、愛媛県県民文化会館、旭川市民文化会館、北海道厚生年金会館、名古屋レインボーホール、大阪城ホール、 横浜アリーナ |
1994年 | 単発コンサート | 帰ってきた青山のダンディー | 10月28日 | 青山学院大学 | |
1996年 | ライブイベント | Act Against AIDS '96 夷撫悶汰(いヴもんた)レイト・ショー ~長距離歌手の孤独 in Jazz Cafe~ | 12月1日~12月3日 | 全3公演 | パシフィコ横浜国立大ホール |
1997年 | ライブイベント | Act Against AIDS '97 桑田佳祐 歌謡サスペンス劇場 | 11月28日~12月1日 | 全3公演 | ワールド記念ホール、パシフィコ横浜国立大ホール |
1998年 | ライブイベント | Act Against AIDS '98 桑田佳祐 オールリクエストショー | 11月30日~12月2日 | 全3公演 | パシフィコ横浜国立大ホール |
1999年 | ライブイベント | Act Against AIDS '99 桑田佳祐 エリック・クラプトソ 横浜公演 | 11月30日~12月2日 | 全3公演 | パシフィコ横浜国立大ホール |
2000年 | FC会員限定ライブ | 伊豆だらけのローラ | 1月29日~2月5日 | 全国5都市5公演 | Zepp Sapporo、仙台ビーブベースメントシアター、名古屋ダイヤモンドホール、神戸チキンジョージ、福岡ドラムロゴス |
2000年 | ライブイベント | Act Against AIDS 2000 桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング | 11月30日~12月2日 | 全3公演 | パシフィコ横浜国立大ホール |
2001年 | FC会員限定ライブ | 古賀紅太No Reason! ライブハウスツアー | 7月5日~8月9日 | 全国7都市7公演 | 岐阜モダンカフェクラブ、横浜BAY HALL、札幌ペニーレーン24、青森クオーター、佐賀GEILS、奈良NEVER LAND、新宿リキッドルーム |
2001年 | ライブイベント | Act Against AIDS 2001 桑田佳祐 plays "The Beatles" クワガタムシ対カブトムシ | 11月30日~12月2日 | 全3公演 | パシフィコ横浜国立大ホール |
2001年 | 単発コンサート | No Reason Coca-Cola Presents 桑田佳祐 Xmas LIVE in 札幌 |
12月22日~12月24日 | 月寒グリーンドーム | |
2002年 | コンサートツアー | No Reason Coca-Cola Presents 桑田佳祐全国ドームツアー2002 「けいすけさん、色々と大変ねぇ。」 |
11月16日~12月22日 | 全国6都市12公演 | Zepp Sendai、ナゴヤドーム、大阪ドーム、福岡ドーム、東京ドーム、札幌ドーム |
2002年~2003年 | 単発コンサート | No Reason Coca-Cola Presents 桑田佳祐年越しライブ2002 「けいすけさん、年末も色々と大変ねぇ。」 |
12月27日~1月1日 | 全4公演 | 横浜アリーナ |
2003年 | ライブイベント | 桑田佳祐 Act Against AIDS 2003 栄光のDISCO&SOUL | 12月2日~12月4日 | 全3公演 | パシフィコ横浜国立大ホール |
2004年 | ライブイベント | 桑田佳祐 Act Against AIDS 2004「THE GOLDEN AGE OF BRITISH ROCK~愛と青春の英国ロック~」 | 12月2日~12月4日 | 全3公演 | パシフィコ横浜国立大ホール |
2006年 | ライブイベント | Act Against AIDS 2006 桑田佳祐「星条旗よ永遠なれ!?~私のアメリカン・ヒーローズ」 | 11月30日~12月2日 | 全3公演 | パシフィコ横浜国立大ホール |
[編集] 出演
※すべて個人での出演によるもの。グループでの出演などはサザンオールスターズ#CMの節を参照。
[編集] テレビ番組
[編集] ラジオ
- 桑田佳祐のオールナイトニッポン(1979年、1984年、ニッポン放送)
- ミュージック・スクエア(1989年~1993年、NHK-FM)
- 桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド ~やさしい夜遊び~(1995年~、JFN)
[編集] CM
- アンネット、アンネシャンテS(1981年)
- 雪印乳業、スライスチーズ(1982年)
- フジフイルム、フジカラー(1989年)
- 日本生命、ロングラン(1989年~1991年)
- キヤノン、ビデオi(1991年~1992年)
- 角川書店、角川文庫(1994年)
- キリン、缶コーヒー「JIVE」(1993年~1995年)
- キリンビール、キリン・ラガー(1996年)
- ヤナセ、キャディラック・セヴィル(1996年)
- 三菱電機、Pedion(1998年)
- WOWOW、サマーキャンペーン(2000年)
- 日本コカ・コーラ、コカ・コーラ「No Reason!」キャンペーン(2001年~2002年)
- JAL、「FLY! JAL!」キャンペーン(2003年~2004年)
- トヨタ自動車、「MORE THAN BEST」キャンペーン(2004年~2005年)
- 明治製菓、ショコライフ(2006年~2007年)
- アメリカン・エキスプレス、「MORE THAN JUST A CARD」キャンペーン(2007年)
[編集] 書籍
[編集] 著書
- ただの歌詩じゃねえかこんなもん(エッセイつき歌詞集、1984年、新潮社)ISBN 4101353018
- ケースケランド(1984年、集英社)ISBN 4087800792
- ロックの子(1985年、講談社)ISBN 4062017172
- ONGAKU BAKADAISHO NO BOKEN(1987年、扶桑社)ISBN 4893531255
- ブルーノート・スケール(1987年、Rockin'on)ISBN 4947599138
- ただの歌詩じゃねえかこんなもん'84-'90(上の同名作品の続編、1990年、新潮社)ISBN 4101353026
- 桑田佳祐の「平成NG日記」(映画「稲村ジェーン」の撮影日誌、1990年、講談社)ISBN 4061723375
- 素敵な夢を叶えましょう(1999年、角川書店)ISBN 4048836021
[編集] エピソード
- 桑田が音楽に興味を持ったのは姉・えり子の影響である。学生時代は姉が集めていたビートルズ等のレコードを聴き入っていたという(当時レコードは高価なものであったが、家にはビートルズのレコードがすべてあった)。また、学生時代は休み時間にいつも教室の隅でプロレスごっこをしていたらしい。
- 姉の岩本えり子はいくつかサザン・桑田ソロの曲で英語補作詞として参加している。桑田によると、作詞に行き詰ったときに電話で相談し、参考にしているとのこと。
- 中学生から高校生にかけ、今は無きパシフィックホテル茅ヶ崎のボウリング場でジュニアボウラーとして鳴らしていた。アベレージは200以上あったららしく、クイズ番組「カルトQ」でも問題として出題された、アマチュアのボウリング大会に出た時の公式記録は297(10フレーム目の3投目だけは7本倒し、それまでの11投は全てストライク)との事。昭和40年代、大ブームだったプロボウラーを目指してもいたという。当時ジュニアボウラーはあまり多くなく、パシフィックボウル茅ヶ崎で一緒にしのぎを削っていたのが同い年で友人の文化放送扇一平である。中・高校時代の友人達は後にワイドショーのインタビューに応じ「昔は桑田は歌手じゃなくてプロボウラーになりたがっていた」と語っていた。
- 高校は地元の神奈川県立茅ヶ崎高等学校に行く予定だったが、試験会場の教室が桑田の出身中学の生徒だけであったことをいいことに、休み時間にプロレスごっこをやっていたのを先生に注意されてしまう。そのせいかどうかは不明だが結果は不合格。滑り止めで受験した鎌倉学園高等学校に通うことに。在学中は英語のみ成績が良く、ほとんど受験勉強をしなかったにもかかわらず、明治学院大学と青山学院大学に合格し、青山学院を選択する。ちなみに大学は一度留年した後に、学費滞納により4年在学したのち1978年に除籍になったとの事(サザンのメンバーで青学に在学していた桑田・大森・関口・原のうち、卒業できたのは関口と原の2人だけである)。
- 青学時代は20代であるにも関わらず、合宿先などでステテコ・ももひき・サングラスといういでたちであったために、サークル仲間に30代だと言われていた。最も初期に付けられていたバンド名「温泉あんまももひきバンド」は、この時の桑田の風貌から来ている。
- 同じく青学時代、桑田と関口が所属していた音楽サークル「BETTER DAYS」に原が参加し桑田と知り合う。当初桑田は原の友達の女の子が目当てで近づいていたため、原の事は容姿を嘆いたり散々な軽口を叩いていたが、エリック・クラプトンなどの洋楽の好みで気が付けば意気投合、デビューまでの間に完全に付き合っており、サザンのメンバーやサークル仲間の間でも公認的であったという。詳細は原の著書『娘心にブルースを』で語られている。
- デビュー当時はコミックバンド扱いされていた事もあり、桑田も本意では無いものの芸人的な立ち振る舞いで、特に長門裕之に顔が似ていることを売りにしていた。また、三遊亭圓生、稲川淳二、大橋巨泉などの物真似も披露しており、現在でも度々ネタにしている。
- 生まれも育ちも湘南であり楽曲でも湘南のイメージが強いものの、桑田自身は湘南という呼称に否定的であり、映画『稲村ジェーン』に出て来る「地元の人間は湘南なんて誰も言わない」というセリフは桑田自身の言葉でもある。サーフィンも中学生時代に友人の板を借りて数回やった事がある程度で、その時は全く立てなかったという。青学時代は「バンドマンとサーファーは敵対関係」と考えており、サーフショップにはお気に入りのネルシャツを買うだけの為に通っていた。デビューしてからも長い間サーフィンには目もくれず、泉谷しげるに丘サーファーなどとネタにされる事もあったが、1993年、37歳にして一念発起しサーフィンを始め、現在も続けている。
- デビュー当時サザンは、本人達にとっては強制的な形で『8時だョ!全員集合』『元祖どっきりカメラ』などのバラエティ番組にも度々出演し、コントやモノマネなどの芸をしていた。ちょうどその頃、ザ・ドリフターズのリーダーいかりや長介が、ドリフ脱退を希望していた高木ブーに代わる新しい人材を探してところで、TBSプロデューサー居作昌果を通して、桑田にドリフ加入を打診していたという。桑田はいかりやとは会うだけ会ったが、具体的なやり取りについては明かされていない。
- 笑福亭鶴光のもとを破門になった元落語家、笑福亭笑光こと鳥飼達夫は1981年12月、桑田のソロ名義のライブ「嘉門雄三&Victor Wheels」のライブに前座として出演。翌1982年にはビクターの営業マンとしてビクター社員達と共に「チャコの海岸物語」の宣伝活動に回りながらサザンのライブの打ち上げにも毎回顔を出し、次第に桑田に気に入られる。そして鳥飼は「『嘉門』の姓を譲ってほしい」と桑田に頼み了解を得て、嘉門達夫と名乗るようになる。その後も現在に至るまで、桑田は嘉門の替え歌を容認し続けるなどの仲である。
- 振り付け師南流石の芸名の名付け親である。南は流石組を率いて、サザンの1988年のライブ「大復活祭」や、原の1991年のソロライブ「花咲く旅路」にも振付師・ダンサーとして出演し、原がライブでダンスを披露する際にも振り付けを担当した。
- オカマのことを「男と女のハーフだからニューハーフだね」と、大阪のあるラジオ番組で「ベティーのマヨネーズ」のママに名付け、『ニューハーフ』という言葉を世間に広めた。しかし本人は自分が広めた訳ではないと否定している。
- 独特の歌唱法は、日本人からは高校時代より大ファンだった前川清からきており、また洋楽ではボブ・ディランの影響が特に強く、学生時代は声質をより近付ける為、ウォッカで喉をうがいし、自宅の部屋にこもって枕に顔を押し付けて大声を出し続ける等の荒行も行っていたという。その結果、1982年頃までの楽曲にしゃがれ声が際立っている作品が多い。しかし、声帯への悪影響も強く、声が出なくなって出血する事もあったらしい。その後は声帯を酷使する極端な歌唱を控えるようになり、しゃがれ声が際立った曲は一部に留まっている。作品の発表時期によって歌声が異なって聴こえるのはこの為である。
- ニッポン放送の「イマジンスタジオ」完成記念ライヴで、オノ・ヨーコのサインの下に自分のサインと「クソババー」と書いたが、あとで消されたという。
- プライベートでは良きマイホームパパとしても知られており、ラジオ番組では度々「息子とサーフィンをした」「ギターを教えた」などの話題を話してしている。特に2000年春、次男の小学校の卒業式に行った際、教室で卒業生の前で当時ヒット中の『TSUNAMI』を生ギターで唄い、この時の様子が雑誌「FRIDAY」に写真入りで掲載された。桑田が唄っている最中、原は教室の後方から桑田の姿をビデオカメラで撮影していたという。
- 同じアミューズの後輩である福山雅治のことを「マサジ」と呼んでいる。2000年に『TSUNAMI』と共に大ヒットした『桜坂』は、「実は自分が作ってFAXで送った」、福山が長崎市出身であることに引っ掛けて「元は『オランダ坂』だった」等と度々ネタにしていた。福山に対しては、ラジオや、共演したライブの際に極端にイジり倒す場面も見られるが、実際にはプライベートでも一緒に飲みに行ったりビリヤードをやったりする等の仲である(ラジオでは「マサジとAVを交換している」と言ったこともある)。桜坂を「あんないい曲、マサジに作れるわけがない」との発言は、逆に福山の才能を讃えての言葉とも言える。
- かつてはヘビースモーカー(しかもニコチン・タール数共に高いハイライト)だったが、喉のことを考えて1999年頃から禁煙している。以来、口元が寂しくなるとチュッパチャプスを舐めるとラジオで語った。また、お酒は普段は朝まで飲むのだが、コンサートツアー中は一滴も飲まない。
- 川上健一の『翼はいつまでも』にボロ泣きし、ラジオでリスナーにも勧めていたことがある。
- 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を飛行機の中で鑑賞するも、実際の「昭和30年代人間」として「あまりにも現実を美化しすぎている」と感じて5分で見るのをやめたという。
- ゆずがまだ無名の頃にラジオ出演していた桑田に対して「桑田さんと路上ライブをやってみたい」といった趣旨の手紙を送ったところ、桑田は本当にゆずの路上ライブに出向き、桑田佳祐&ゆずという夢のセッションをしたことがある。
- サザンの大ファンとして知られる平井堅は、学生時代は「NO-NAME(サザンのシングル『EMANON』の逆さ読み)」というコピーバンドを組んでおり、また、桑田の自宅の門の上に「コーラスでいいので雇ってください」とメッセージを添えたデモテープを置いて行ったという過去を持つ(ミュージックステーション出演時に発言)。このテープに関し桑田は「つめが折ってなかったから、EXILE録っちゃった」と冗談交じりに発言している。2003年の「FNS27時間テレビ~みんなのうた」内の『桑田佳祐の音楽寅さん~MUSIC TIGER~サザンオールスターズスペシャル』では、桑田・原と共にサザンの『栞のテーマ』をハモり、夢の共演を果たした。さらに、2ndシングル『片方ずつのイヤフォン』の歌詞には“Southern All Stars”が登場し、アルバム『Ken's Bar』ではKUWATA BANDの『ONE DAY』をカバーしている。
- ある日桑田が都内のスポーツクラブの駐車場入口に車で入ったところ、前方から、小川菜摘が運転する車がバックで接近して来た。小川は後ろのドライバーが桑田だと気づかなかったようで、「下がれよ!!」と車をバックさせるように恫喝した。道路はかなりの交通量がありバックすることもできず、道路を走る車からも罵声を浴びせられたりと大変だったと、HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP出演時に暴露し、それを聞いた夫の浜田雅功は苦笑いをしていた。ソロ曲の『或る日路上で』は、この出来事が元ネタになっているとファンの間では噂されたが、桑田は否定している。
- 度々髪型を変えたり髭を伸ばす事もあり、CDのジャケット毎にイメージが異なる。特に桑田が四十路を迎え、アルバム『Young Love』リリースの1996年頃はそれまでになかった程、髪をロングヘア・茶髪にしてメディアに登場していた。本人は気に入っていたのだがファンからは概ね不評で、抗議のファンレターまで届いたほどだという。桑田は「伸ばしたっていいじゃねぇか!」とラジオやライブのMCでボヤいていたが、翌年には元の短髪に戻していた。1999年秋~冬頃にはパーマもあてていたが、その期間も短く1999年末の年越しライブ「晴れ着DEポン」の時にはすぐに切っていた。しかし12月にジャケットとPVが撮影された『TSUNAMI』はこの髪型の桑田が写ってしまっている。このパーマに失敗したらしく、同作の大ヒットで特にメディア出演が多かった事ゆえ、この時の髪型にはかなり後悔していた。
[編集] 関連項目
[編集] バンド関連
[編集] 会社関連
[編集] 関連人物
- 小林武史
- 桜井和寿
- 斎藤誠
- トミー・スナイダー
- 吉田拓郎
- 小林克也
- 山下達郎
- 竹内まりや
- 渋谷陽一
- 黒柳徹子
- 明石家さんま
- ビートたけし
- 松任谷由実
- 忌野清志郎
- 中村雅俊
- 五十嵐淳子
- いとうせいこう
- 山下久美子
- 嘉門達夫
- 奥田民生
- TAKURO
- YUKI
- 平井堅
- ユースケ・サンタマリア
- ダリル・ホール&ジョン・オーツ
- レイ・チャールズ
- リトル・フィート
[編集] 外部リンク
- STANDOOH! AREEENA!! C'MOOOON!!!(レコード会社公式)
- sas-fan.net(公式)
- S@S応援団(ファンクラブ公式 尚、一部コーナーは会員以外利用不可)
- AMUSE(CD・出版物情報)
- TOKYO FM キヤノンFMワンダーランド 桑田佳祐のやさしい夜遊び(番組公式)
- +++KUWATA2007+++(公式サイト内2007年概要ページ)
カテゴリ: 正確性 | 桑田佳祐 | 日本のシンガーソングライター | 日本のギタリスト | 日本の映画監督 | ラジオ番組のパーソナリティ・DJ | 1956年生 | 神奈川県出身の人物 | アミューズ | サザンオールスターズ | 音楽関連のスタブ