日泰攻守同盟条約
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日泰攻守同盟条約(にったいこうしゅどうめいじょうやく)は、大東亜戦争(太平洋戦争)中に大日本帝国とタイ王国の間に結ばれた同盟に関する条約である。
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[編集] 概要
[編集] 背景
欧米側の都合と巧妙な外交手腕によって侵略を免れ、大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁体制が固められ、フランス領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となったが、翌年には日本軍の介入で講和。これによってタイは旧領土のほとんどを回復し、日本への協力姿勢を強めた。
[編集] 参戦
日泰攻守同盟条約では、アジアにおける新秩序建設、相互の独立主権の尊重・相互の敵国または、第三国との交戦の場合の相互同盟国としての義務を果たすことなどが明記された。1941年12月21日に公布され、条約に基づいて日本軍がタイに進駐した際には、一部軍人が少年兵を率いた義勇軍が反抗したが、タイ政府は日本の戦争へ積極的な協力姿勢を内外に示した。なお、この条約は、1941年12月8日の日本の対米英蘭宣戦布告の後であったために、12月8日にタイ南部へ上陸した日本軍はタイ軍と小規模な戦闘を行っている。
条約を知った英米軍は、翌1942年1月8日から都市の攻撃を始めたため、タイ政府は1月25日に英米に対して宣戦布告した。
[編集] 戦後
条約は1945年9月2日、日本の降伏に伴うタイの敗戦により破棄された。ピブーンは失脚し、タイ新政府は攻守同盟条約を「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた」ものとして、その違法性を連合国に訴え、1946年から1947年にかけて、回復した旧領土をフランスに返還した。その結果、タイ国民は連合国による裁きを免れた上、国際連合での敵国条項にその名を連ねることも無かった。日本に対しては、1951年の日本国との平和条約において戦争強制の賠償を要求、日本は高額な賠償金を支払うことを約束して国交を回復したが、戦費として日本がタイから借りた20億バーツ(当時10億ドル以上)は、日本の悲惨な状態に同情した使節団によって2500万ドルまでに引き下げられた。また、ピブーンは逮捕、投獄されたがすぐに釈放され、後に首相に返り咲いた。