日高輝
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日高 輝(ひだか てる、1905年(明治38年)2月 - 1987年)は昭和期の日本の経営者。東京帝国大学法学部卒。日本興業銀行常務、日産化学工業社長、山一証券社長、国際電信電話社長を務めた。
[編集] 略歴
父は住友に務めていた建築家の日高胖。辰野金吾の弟子で現在重要文化財となっている大阪府立中之島図書館の建設に参画し、大正期の増築工事では技師長として設計も行なった人物。義父は住友総理事・大蔵大臣も勤めた小倉正恒。
東京府立第四中学校、旧制弘前高等学校(現弘前大学)、東京帝国大学法学部卒。高等文官試験行政科をパスしたが、中位の成績だったので官界をあきらめ住友銀行の面接を受けたが、住友に務めていた父に打ち明けなかったのでいじっぱりと思われたのか不採用。住銀には近親者は不採用の不文律もあり、その頃もその影響にあったのかもしれない。
1929年(昭和4年)日本興業銀行に入行。興銀を選んだのは特に深い理由もなく、ちょうど大学に求人がきていて提出する願書も楽だったからで、どんな銀行でどこに本店があるかも知らなかったという。同期には後に興銀頭取となり「財界の鞍馬天狗」と言われた中山素平、日産自動車社長となった川又克二がいる。
証券部長・総務部長などを務め、理事兼大阪支店長を務める。興銀が長期信用銀行に転換した後常務取締役となり、日産化学工業に副社長として出向。
1964年、興銀頭取となっていた中山素平から経営危機に陥っていた山一證券の社長就任を要請される。最初日高は固辞したが、山一のメインバンクであった富士銀行の岩佐頭取、三菱銀行の宇佐美洵頭取からも説得を受け、さらに小林中からも直々に説得され、ついに山一行きを決意する。