本佐倉城
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本佐倉城遠景 | |
通称 |
将門山城 |
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 | |
築城年 |
文明年間か |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 |
元和元年(1615年) |
遺構 |
堀、土塁 |
位置 |
本佐倉城(もとさくらじょう)は、現在の千葉県印旛郡酒々井町本佐倉の将門山に築かれた千葉氏後期の本拠地。
[編集] 概要
室町時代後期に千葉宗家を倒して家督を奪った馬加氏は、将軍足利義政の命により千葉実胤と自胤を支援した東常縁に討たれ滅亡した。また太田道灌も実胤・自胤を支援し江戸城を築城するなどした。だが、馬加康胤の子(異説あり)・千葉輔胤は、古河公方足利成氏と結んで下総国を平定し、文明年間に従来の亥鼻城よりも内陸のこの地に城を築いて本拠地を移した(なお、文明11年(1479年)の太田道灌が千葉輔胤を攻めたときに追い詰められた輔胤の籠城先が臼井城であったことから、この時点ではまだ本佐倉城は完成していなかったと推定されている)。
城域は内郭と外郭に分かれており、内郭は南方に谷が刻まれた半島状の丘陵上に占地し、往時は三方を湿地帯で囲まれた要害であった。一方の外郭は内郭から繋がる丘陵上を自然地形と空堀で分断した広大な地積を持ち、千葉氏の勢力が伸張した後家臣団の屋敷地として整備されたとされる。
千葉氏が小田原の陣後に改易されると、徳川氏に接収されて一旦は破却されて代わりに城下に陣屋が設置された。だが、軍事上の必要から後に同地に封じられた小笠原吉次・土井利勝が再び本佐倉城に入って佐倉藩の藩庁が置かれた。後に佐倉城移転と一国一城制により廃城された。なお、本佐倉の城下町は酒々井宿に移設されて成田街道の宿場町になったと考えられている。
[編集] 沿革
- 文明年間、千葉輔胤により築かれる。
- 天正18年(1590年)、小田原の陣の後徳川氏が入城。
- 慶長15年(1610年)、土井利勝が佐倉城を拡張し、本拠を移動。
- 元和元年(1615年)、一国一城令により廃城。