掛川城
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天守及び太鼓櫓(いずれも再建) | |
通称 |
懸河城、雲霧城 |
城郭構造 |
平山城 |
天守構造 |
複合式望楼型 |
築城主 | |
築城年 |
文明年間(1469年-1487年) |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 |
明治4年(1871年) |
遺構 |
二の丸御殿 |
位置 |
掛川城(かけがわじょう)は、遠江国佐野郡掛川(現在の静岡県掛川市掛川)にあった城。平山城である。
1994年(平成6年)に天守が再建されたが、これは戦後初の木造によるものであった。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 戦国時代
室町時代中期の文明(1469年-1487年)年間に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられている。
そのまま朝比奈氏が城代を努め、泰煕の子孫である朝比奈泰能・朝比奈泰朝が代々城を預かった。ところが、永禄11年(1568年)、朝比奈氏の主家の今川氏が甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、当主の今川氏真は本拠地たる駿府館を捨てて、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。このため、掛川城は徳川勢の包囲に遭うが、泰朝は城を守ってなかなか落城しなかった。しかし、多勢に無勢もあり、和議で主君氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断した。
氏真と泰朝は相模国の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、掛川城に程近い牧之原台地に諏訪原城を築き、さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となった。しかし掛川城は天正10年(1582年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けた。
[編集] 天正年間から慶長初年
その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが、天正18年(1590年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。
[編集] 江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転した。その後、掛川城には多くの譜代大名が入ったが、最終的には太田氏(太田道灌の一族の系列)が入り、何度か城の修築も行われている
ところが、幕末の嘉永7年(1854年)末に、東海地方一帯を大地震が襲い(嘉永東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊した。この際、政務所である二ノ丸御殿は文久元年(1861年)までに再建されたが、天守は再建されることなく、明治維新を迎えた。
[編集] 天守の復元
天守は、当初は慶長9年(1604年)の大地震で大破したが、1621年(元和7年)に再建されている。ところが、嘉永7年(1854年)旧11月4日の嘉永東海地震により再度倒壊し、その後は天守の再建が行われることなく、遺構が残るのみであった。しかし、平成6年(1994年)に、市民や地元企業などから十億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建し、掛川のシンボルとなっている。
この天守を再建するに際しては、同じく山内一豊が築城した高知城を参考としてそれに近い構造とし、壁は白漆喰で塗り固められている。確に現存している高知城は、江戸時代末期の再建ではあるが、一豊の創建天守に近いものであると考えられている。また、三層三階の入母屋作りである点と、二階の慶長時代の様式といわれる花頭窓なども、調査に基づいて忠実に復元したものである。
一方で、掛川城の天守が地震で倒壊する数年前の1851年(嘉永4年)に作成された、天守台周囲の崩落した石垣と芝土手の被害状況を示した絵図面が残っており、同時に天守の形も示されてるので、嘉永地震以前の天守を知る重要な手がかりとなっている(掛川城二の丸美術館蔵)。但し、各階壁面の下部板張りになっているなど、再建された天守とはやや異なっている面もある(同時期に再建した太鼓櫓は下見板張にしている)。
[編集] 遺構
文久元年(1861年)に再建された二ノ丸御殿が現存し、昭和55年(1980年)に国の重要文化財に指定されている。現在、御殿内は入場可能となっており、採光や部屋割などをそのままにすることで、当時の風情を多く残している。この他、石垣や土塁、堀の一部にも当時のものが残っている。
また、玄関下御門が明治維新後に、袋井市の油山寺にそのまま移築され、これも国の重要文化財に指定されている。大手門番所も幕末の建築であり、市の指定文化財となっている。また、門2つが移築されている。
竹ノ丸は江戸時代には武家屋敷のあった所だが、明治以後は豪商の松本家が購入し、屋敷の建て替えを行った。この建築が、その後に掛川市の所有となって現在まで残り、明治時代の上流階級の邸宅と小規模な庭園が当時を偲ばせる。もっとも、あまり保守されないまま放置されており、やや建物は古くなっている。
[編集] 周辺の観光地整備
掛川駅から掛川城までの約500mと周辺商店街では:
- 建築物に瓦屋根と海鼠壁を初めとする、城下町風外観を持たせる。
- 歩道敷タイルを石板調にする。
- 電線の地中埋設による無電柱化。
- 信号機などへのデザインポールの採用。
などの施策により、城下町風の景観が整備されている。
[編集] 掛川城に関する史料
[編集] 絵図面
- 「遠州懸川城」一枚、正保元年(1644年)・・・幕府が諸藩に城郭の絵図面を提出させたいわゆる「正保城絵図」によるもの。内閣文庫蔵。
- 「遠江国掛川城地震之節損所之覚図」一枚、安政2年(1855年)・・・嘉永安政地震により城内の破壊した箇所を示した図面。幕府に提出した絵図の控え。幕末の掛川城の様相を知ることができる。掛川城二の丸美術館蔵。
- 「遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図」一枚、安政2年(1855年)・・・嘉永安政地震で崩落した天守台石垣と芝土手の被害状況を北東の方角から俯瞰して描いた絵図。倒壊前の掛川城天守を知る貴重な史料。掛川市二の丸美術館蔵。
[編集] 参考書籍
- 掛川市教育委員会編『掛川城復元調査報告書』1998年3月
- 榛村純一・若林淳之編『掛川城の挑戦』静岡新聞社、1994年3月
[編集] 掛川城が登場する作品
[編集] 小説
[編集] マンガ
[編集] 交通アクセス
[編集] 関連項目
[編集] リンク
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