梨本宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梨本宮(なしもとのみや)は、伏見宮貞敬親王の王子、守脩(もりおさ)親王が創設した宮家。
守脩親王は、文政2年(1819年)に誕生。天保4年に親王宣下。円満院に入る。出家し覚諄入道親王と称した。天保6年に梶井円融院を相続し、昌仁入道親王と改名した。明治元年に還俗し、明治3年に梶井宮と称していたのを梨本宮と改称した。明治14年、63歳で薨去。
守脩親王には、子が無かったため、山階宮家から菊麿王が入り、明治14年に宮家を継承した。その後、明治18年に山階宮に復帰した。菊麿王の後を継いだのが久邇宮朝彦親王の王子、多田(ただ)王で、相続にあたって守正(もりまさ)王と改名した。
守正王は、明治8年(1874年)誕生。陸軍士官学校卒業、明治36年にフランス留学。 これに先立つ、明治33年に鍋島直大侯爵の二女伊都子と結婚。方子女王、規子女王の2女をもうける。日露戦争では、参謀本部勤務。次いで第三軍付き武官として出征した。戦後、再度フランスへ留学。フランス陸軍大学を卒業。陸軍大将に累進し、元帥の称号を賜った。軍事参議官、日仏協会総裁、在郷軍人会総裁などを歴任。昭和18年(1943年)、伊勢神宮祭主に就任した。
戦後、運命は暗転する。皇族として、ただ1人戦争犯罪人に指定され、巣鴨プリズンに拘置される。半年後に釈放されたが、宮邸に帰宅してみると、集団強盗に襲われ家財の多くを盗難にあっていたという。昭和20年、皇典講究所第6代総裁就任。昭和26年(1951年)78歳で逝去。
長女の方子女王は李氏朝鮮最後の皇太子で後に李王家を継承した李垠(イ・ウン)と結婚し、戦後は大韓民国に渡り、福祉事業などに尽くした。その子息である李玖は日本に生まれ、アメリカに留学。アメリカ人女性と結婚後、1963年に韓国に帰国。韓国で会社を経営していたが、その後の業績不振により再度日本に渡った。2005年7月16日、心臓麻痺のため東京で死去。享年73。子女がなかったため、彼の死去により李王家直系の血統は途絶えた。
伊都子妃は、守正王亡き後も「最後の貴婦人」として振舞い、規子女王の二男広橋儀光、次いで久邇宮多嘉王の三男龍田徳彦を養子に迎え、昭和51年(1976年)に逝去した。日記をつけるのを日課にしており、死後「梨本宮妃伊都子の日記」として出版されている。
週刊誌によると、皇統と血縁関係がない梨本隆夫が養子になり梨本の名で詐欺行為に荷担していると報道されている。