梶山季之
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梶山 季之(かじやま としゆき、1930年1月2日 - 1975年5月11日)は日本の小説家・ジャーナリスト。
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[編集] 人物
父が朝鮮総督府に勤務の為、朝鮮京城で生まれた。五木寛之は南大門小学校の後輩。敗戦後引き揚げ両親の郷里、広島県佐伯郡廿日市町地御前(現廿日市市)で育つ。広島二中(現広島観音高)を経て広島高等師範学校国語科に入学。在学中から地元の同人誌を糾合し、広島文学協会を設立するなど精力的に活動した。また私淑していた作家原民喜の自殺に衝撃を受け、彼を記念する碑の建立に奔走した。
1953年卒業後上京。横浜鶴見工業高校の国語教師を務めた後、喫茶店の経営をしながら同人誌を主宰。1955年三浦朱門らのいた「新思潮」(第15次)同人になり小説を書く一方、フリーで「週刊明星」「週刊新潮」に記事を書いた。1958年ルポライターになり、1959年「週刊文春」創刊に際しトップ屋グループを作り名を売った。またこの時期「梶謙介」のペンネームで小学館の学年誌などに多くの冒険小説も書いた。1962年、自動車企業間の苛烈な競争を背景にした小説『黒の試走車』がヒット。「企業情報小説」、「産業スパイ小説」という新分野を開拓した。トップ屋をやめ多くのベストセラー小説やルポを書き、高度成長期の一躍流行作家となった。1969年には文壇長者番付第一位となった。
ジャーナリストの世界において、記事執筆のためのデータ収集を専門とする「データマン」、そしてデータマンの集めた情報を元に記事を執筆する「アンカーマン」という分業体制を確立したのは、日本では梶山が最初であると言われている。
あらゆるジャンルの作品を手掛けたが、生涯のテーマは、朝鮮・移民・原爆とも言われ、日韓併合による創氏改名に迫った『李朝残影』など資質の高い作品も残している。晩年は繁栄する世相を反映しエロティシズムへの傾斜を深めた。一文ごとに改行するスタイルは、時に原稿料目当ての枚数稼ぎとも揶揄された。
1975年5月7日、ライフワークである長編小説『積乱雲』の取材のために訪れた香港のホテルで突如吐血。一時は容態が安定するもののその後急変、5月11日早朝、食道静脈瘤破裂と肝硬変で死去した。まだ45歳の若さだった。
作品数は多く、現在まで合計1000万部を超える売り上げとなっている。文庫でも絶版が多くなっているものの、近年、雑誌などの特集により、その膨大な作品群を再評価する動きが出ている。
[編集] 主な作品
- 「黒の試走車」 産業スパイ小説
- 「赤いダイヤ」 あずきの先物取引を描いた小説
- 「李朝残影」 朝鮮物の秀作(直木賞候補)
- 「生贄」 デヴィ夫人をモデルにした小説で、名誉毀損で訴えられたため絶版
- 「せどり男爵数奇譚」 古書の世界を描いた小説
- 「と金紳士」 アダルト漫画の先駆
- 「銀座遊侠伝」 ヤクザの異端児とされた祐天のテルをモデルにした。
- 「苦い旋律」 女性週刊誌に連載。レズビアン、ニューハーフ物の実質的嚆矢
- 「男を飼う」 SM、女装、様々なフェティシズムを扱っている。
[編集] 逸話
- 梶山は文壇の先輩柴田錬三郎とドボンに興じて負け続けた結果、柴田に多額の借金を作ってしまった。その後、両人が或るホテルの開業記念式典に来賓として招かれた折、柴田は梶山に向かって「来賓として挨拶する時、お前が××××(女性器の卑語)と言ったら、これまでの借金を全部帳消しにしてやる」と言った。すると梶山は、自分の番が廻ってきた時、壇上のマイクの前で「私はポルノ作家の梶山季之であります。人生は、××××であります」と挨拶した。(立川談志「酔人 田辺茂一伝」1994年、講談社、pp.187)