立川談志
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当代(家元の談志)は7代目だが、5代目と自称している。
これは明治時代の寄席で人気を博していた釜堀りの談志(4代目)が初代を称し、俥屋の談志がそれに倣って4代目と称していたようなので、当代は5代目というのは語呂が良く、更に師匠の5代目柳家小さんと代数が合うので丁度良いという事で、5代目を名乗る事になった。(当代著書『現代落語論』より)
釜堀りの談志を初代と見なした場合、3代目になるはずの談志が何故4代目を称していたかというのは、本名恒川駒吉の談志と俥屋の談志の間にはもう一人談志がいたらしいため、その談志を代数に含めていたためではないかと思われる。
また、花咲爺の談志(3代目)を初代とみなしたから5代目となった、とも言われる。
ちなみに、4代目桂文之助が1916年に著した『古今落語系図一覧表』では、のちに宇治新口を名乗った談志が代数に入っておらず、花咲爺の談志が2代目、釜堀りの談志が3代目、本名恒川駒吉の談志が4代目となっている。
- 初代立川談志 - 後の2代目菅良助。
- 2代目立川談志 - のち初代三笑亭可楽の門下で宇治新口を名乗る。こちらの談志の方が初代だとする説もある。
- 3代目立川談志 - 「花咲爺の談志」。本名、三宅岩太郎。
- 4代目立川談志 - 「釜堀りの談志」。江戸2代目桂才賀の門下。本名、中森定吉。
- 5代目立川談志 - 後の柳家金太夫。本名、恒川駒吉。
- 5代目と6代目の間にもう一人談志がおり、東西会に所属していたようであるが、詳細不明。
- 6代目立川談志 - 得意な演目から「反対俥の談志」「俥屋の談志」。性格の良さから「お結構の談志」。5代目三升家小勝の門下。本名、竹内栄次郎。
- 7代目(自称5代目)については以下に記載。
当代(7代目、但し自称5代目)立川 談志(1936年1月2日 - 本名:松岡克由)は、落語立川流家元。ごく短期間、国会議員と政府政務次官を務めたことがある。
娘はかつてバラエティタレントをしており、その時の芸名は松岡まこと。趣味はジャズで、2005年4月にYumi and Tea offの名でインディーズからCD(「唇待ちきれなくて」Vortex Records/ミュージックバンク)を出した。実弟は立川企画の社長。談志の実質的なマネージャーである。
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[編集] 概要
古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けている。古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおそうという野心的努力は評価されているが、古典本来の持つ格調高さを損なう場合も有る。落語のほか講談、漫談をも得意とするなど、芸域は広い。自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。出囃子は『木賊刈』。誕生日が師匠5代目柳家小さんと同日である。5代目三遊亭圓楽、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝死去後は8代目橘家圓蔵)と共に落語四天王と呼ばれた。
[編集] 経歴
- 1936年 - 1月2日、東京・小石川に生まれる。
- 1952年 - 16歳で5代目柳家小さんに入門し、本名の「克由」の一字を取って、柳家小よしと名乗る。
- 1954年 - 二つ目(落語家の格付けの一つで、前座の上、真打ちの下)に昇進して柳家小ゑん(こえん)に改名。寄席の他に日劇ミュージックホールや新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演し、コントや漫談も披露。赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。
- 1963年 - 立川談志を襲名して真打となる。同時に小さん門下から真打に昇進したのが5代目柳家つばめ。
- 日本テレビ『笑点』の企画を発案し、1966年5月から1969年11月まで初代司会者を務める。後に、笑点放送100回記念では桂歌丸と異色漫才を行った。
- 1969年 - 第32回衆議院議員総選挙に無所属で出馬するも落選。
- 1971年 - 第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で初当選。直後に自由民主党に入党。
- 1975年 - 三木内閣の沖縄開発庁政務次官に就任したが、わずか36日で辞任。自民党を離党し、任期を1年残し参議院議員を辞職する。
- 1978年 - 三遊亭圓生ら三遊派と落語協会脱退。この脱退については諸説あり、落語史としても今尚、不透明の部分の多い歴史でもある。談志と圓楽を黒幕とする説が多い(志ん朝の香盤を下げるために仕組んだとする声さえある)。しかし、反響の大きさに慌てている談志の姿も目撃されてもいる。また、来ないと思われていた志ん朝が来てしまった為、慌てて参加を取りやめたともいわれる。
- 因みに川柳川柳の著書によると、談志は脱退した三遊派で構成される『三遊協会』の次期会長は自分だと思い込んでおり、圓生に確認したところ、「次は志ん朝だ」と答えられた為、思惑が外れて計画から身を退いたとある。
その後、落語に専念することになるが、落語協会の真打昇進試験制度の運用を巡って落語協会会長であり、自分の師匠でもある、小さんと対立、1983年に落語協会を離脱して落語立川流を創設し、その家元となる。
- 1995年 - 新潟県西蒲原郡岩室村夏井(現:新潟市夏井)で田んぼを持つ。「談志の田んぼ」と称し、以降毎年、田植え、稲刈り作業を一度も欠かさずに行い、岩室温泉での落語会も行なう。
- 1999年 - 長野県飯田市での高座にて、落語を上演中に居眠りしていた客一人を注意して退場を勧告した事により、「落語を聴く権利を侵害された」と訴えられる珍事件に発展した。結局は請求棄却となる。
[編集] 政治活動
1969年に衆議院選挙に立候補したが落選(東京8区、無所属。19,548票で定数3人、立候補者9人中6位)。1971年の参議院選挙では当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが、その際のインタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という言葉を残す。直後に自由民主党に入党した(本人によれば、佐藤栄作が座布団からおりて小さんに頭を下げたからと言うのが理由だという)。議員活動では、NHK受信料問題を質問するなど先見の明のあるところも見せている。
三木内閣時代の1975年12月には沖縄開発庁政務次官に就任するが、就任時の会見で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言したことが問題化。さらに政務次官初仕事である沖縄海洋博視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄メディアの記者から「あなたは公務と酒とどちらが大切なんだ」と咎められる。これに対して「酒に決まってんだろ」と言ったことがさらに問題となる。弁明を行うはずの決算委員会を寄席を理由に欠席するに至って、自民党内部からも反発が起こり辞任。在任期間はわずか36日であった。談志自身は、議員になったのは兼職をしてもいいと言われたからであり、自分は大衆との接点を持ち続けるのが信条だとして自民党を離党した。同時に参議院議員も辞職している。なおこの問題の時、親交がある石原慎太郎から「謝罪したらどうだ」と説得されたが拒絶した。
談志本人の政治的ポリシーは相当に強硬な保守系であり、在任中は特に共産党議員への野次に力を入れていた事により、共産党支持者の8代目林家正蔵(後の林家彦六)(ただし、共産党のイデオロギーに共感した訳ではなく、本人は判官贔屓としている)と、談志の野次を聞きつけては喧嘩をしていた模様(ただし、彦六は談志の選挙を手伝っており、また、談志も国会の決算委員会で国鉄問題の際に通勤定期を通勤のみに使い、外出など私用な目的には定期を使わずに運賃を払っている人物の例として彦六を取り上げており、本人著では議事録にも残っているとある)。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交が深い。保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いている。
その反面、元社会党衆議院議員上田哲の選挙応援にも出たこともある。談志曰く「議会には反対派も必要だ」というが、政治レベル以外での個人的な交友関係とも思われ、上田も立川流の高座に上がったこともあるほか、談志・西丸震哉と「老人党東京」を旗揚げしている。
[編集] 音楽活動
- 『笑点音頭』
(※『笑点音頭』は、この番組で現在放送されているインストゥルメンタルのテーマミュージックとは全く別物である。)
談志自身が企画し司会を務めたテレビ番組「笑点」のテーマソングである。談志31歳の頃の作品。すべての歌唱パートを談志が受け持つ。「笑点メンバー」は上記のとおりの6人であるが、サビの部分のバックコーラスのみの担当である。この曲は談志と“メンバー”が対立し、“メンバー”全員が降板した1969年以降は、一切放送に使用されなくなった。現在では、この曲は、企画盤のうちの一曲として複数のレコード会社からCD化されている。
- 『アメリカ』
2003年9月11日「談志2REVOLUTION」名義でシングルCDとして発売。ラップミュージックとなっている。
- 『国会』
[編集] その他の活動
手塚治虫の熱烈なファンで、生前の手塚本人との親交も深く、アニメ映画『ジャングル大帝』に声優として参加した(密猟者ハムエッグ役)。声優としての出演には他に『ドラ猫大将』などがある。また、ブラック・ジャックの文庫本にもメッセージを寄せている。
- 突飛な活動
1992年、瀬戸内海のサメが人を襲う事件があり、当時、明治大学替え玉受験疑惑で芸能活動謹慎中であったなべおさみと「シャークハンター必殺隊」を結成する。このように本気か冗談かわからない突飛な活動を好む傾向がある。
[編集] 現在
- 2005年4月から、NHKラジオ第1放送でラジオ創世記の名番組のリメイク『新・話の泉』(おしゃべりクイズ疑問の館の枠で月一回放送)のレギュラーを毒蝮三太夫、山藤章二、松尾貴史、その他ゲストとともに務めている。
- 2005年10月6日から、ナイターオフシーズン(10月~3月)に放送されている『おとなの時間割「談志の遺言」(TBSラジオ火曜21時~22時)に出演中。文化放送で以前放送された「立川談志 最後のラジオ」以来のラジオ番組である。
- 2006年現在、TOKYO MXで野末陳平とともにトークバラエティ番組『談志・陳平の言いたい放だい』に出演中。
[編集] 人物
[編集] 噺家として
- 噺家としての全盛期の実力に対する評価は概して高いものの、直情径行な性格により数々の過激な争いを起こし続けており、敵を作ることも厭わない「暴れん坊」ぶりもあって、毀誉褒貶の激しい人物でもある。
- 楽屋ネタや同業者をネタにする噺家は少なくなく、談志もまた、敵味方・先輩後輩関係無く、同業者にネタにされる事がある。落語「地獄めぐり」の口演では、地獄に来た落語家を並べ立てるくだりにおいて、「立川談志……あれ、あいつまだ生きてんじゃなかったか……ああ小さく書いてある、えーと『近日来演』」(まもなく死んで地獄に来る、というオチ。オリジナルは桂米朝の「地獄八景亡者戯」で、本来は演者の名前が入る)というネタが出て来る。
- 落語そのものに対して、「落語とは、人の業の肯定である」との見解を、常々表明している。
- 師匠5代目柳家小さんとは真打昇進試験に弟子が合格しなかった点で当時会長であった小さんの方針と合わないということで落語立川流を設立、これにより破門となるが、本人著では破門後も何度か互いの芸を貶す・どちらが先に死ぬかなどの口論をしたり、取っ組み合いの喧嘩もしているが、基本は二人の間で自然とおさまっている。ある新年会では気に入らない小さんの客に酒や膳の上のものを片っ端からその客にぶつけて帰ってしまった後、小さんは「客がワルイ」と談志を庇ったという。また、喧嘩にしても小さんは「本気でやれば、俺の方がよっぽど強い」と談志に好きに頭を締めさせてやっていた。
- ハスキーな声でシニカルかつマイペースに振る舞い、時に有言不実行ぶりをはばからないなど、一筋縄ではいかないキャラクターの持ち主である。
- 今では一般化した、「あわわ」や「やだねえ」という言葉を流行らせた。
[編集] 性格
- 評価できない人物に対しては正直に罵倒混じりの辛辣な批評を飛ばし、高座では差別用語も遠慮無く連発するなど、タブーを物ともしない過激な毒舌家として有名だが、一方ではフェミニストでありオポチュニストである。特にそのタブーを物ともしない過激ぶりで有名なのが吉本興業批判。自著で初代桂春団治が晩年非業の死を遂げたという例をあげ「あそこ(吉本興業)の使い捨て体質は戦前から(創業時からの伝統)なんだよ」と批判しており、これが原因か、吉本が東京進出して以降、テレビの出番が減っている。ただし、締め出されてはいない。
- 弟子によれば、「人格は最低だが芸は最高」という。
- 「芸人という消費文化の担い手である以上真っ当に働くな」、との趣旨で「泥棒しろ、ただし、俺の家は駄目だぞ」と弟子に発言したこともあるという。
- 自他共に認める、無鉄砲なまでの冗談・悪戯好きであり、洒落か本気かわからぬ行動によるこの種の武勇伝は極めて多い。エピソードの一つとして、レポーターやナレーション業で知られる神太郎が付き人だった時、地方興行の折、夜中に「トランプを買ってこい!」と無理難題を押しつけられたが、神は、キャバレーからトランプを調達し、談志を唸らせた。
- 肉が好物である為、弟子はしくじった際に機嫌をとるために高級肉を談志宅へ持ち込む事がある。談志の自宅には多数の冷蔵庫があり、賞味期限が切れた食材は弟子に食べさせる。
- かなりの資産家であると同時に、吝嗇(りんしょく:ケチ)でもある。「10億円の預金がある」との発言もしている。
- メディアの中での意見や考えについては一貫していないものも多い。芸人や有名人の評価もその場・その時によって多々異なる(或いは正反対な評価も)。これについては、他人と同じ考えを好まない談志の性格上の問題、また、全てを芸として語っていて、あえて嫌いな人物を持ち上げたりしているとも考えられる。
[編集] エピソード
- 熱海に出かけたが弟子たちの働きぶりが気に入らず、弟子全員の衣類と財布を持って先に東京に帰ってしまい、弟子たちはどうしようもなく旅館から電車賃を借り、旅館の浴衣姿でやっと帰ってきたという。これは談志自身の著作・弟子の著作双方に記載されているので実話であろう。
- いかに荒っぽい悪戯であろうと「洒落」の一言で済ませてしまう乱暴な談志を、唯一閉口させたのは石井伊吉(毒蝮三太夫)であった。駅のホームで電車を待っていた談志を電車入線間際に線路に突き落とそうとし、運良く落ちずに済んだ談志が「死んだらどうするんだ!」と怒鳴りつけたが、毒蝮笑って曰く「洒落のわからないやつだと言ってやる」。彼に「毒蝮三太夫」の芸名を与えたのは談志である。
- 1997年に咽頭癌の手術。しかし、この時は白板症と診断され「癌もどき」と。術後、医者から止められていたにもかかわらず記者会見では堂々とタバコを吸った。「上岡龍太郎が、癌になったら、どういう反応をするか見てみたい」と言っており、上岡も自身と同様に一筋縄ではいかないと考えているようである。
- とある雑誌に、「一目惚れとは、容姿から入るものである。」との格言を残している。
- 落語自体の将来を憂えており、「驚きももの木20世紀」において、一肌脱いでやろうと、本当に全裸になってポーズをとった(当然、モザイクはかかった)。
- ラジオ番組において免田事件の元死刑囚に対し「絶対やってないわけないんだよね」と話し、これが問題となり後で謝罪した。
- テレビのワイドショー番組で「市中引回し・仇討ちを復活させねーとだめだ。」と発言。「野蛮極まる」と問題になった。このため同番組でコメントを求められるというケースは最近に限れば、ない。
- バスケットボールリーグNBAのファンとしても知られ、落語のネタにできるほどの知識を持っている。特にサクラメント・キングスとジェイソン・ウィリアムスを熱心に応援している。
[編集] 他の芸人、タレントへの批評
- 基本的には天の邪鬼なコメントが多い談志だが、芸人に関してはストレートな批評を述べている。
- 「お笑いに才能は絶対、必要だ」というのが談志の持論。ある番組の中で「ダウンタウンの松本人志と爆笑問題の太田光には、お笑いの才能があると感じた。要は、あいつら天才なんだよ」と、この2人を大絶賛していた。
- テリー伊藤との対談では、弟子の志の輔、志らく、爆笑問題、アンジャッシュを褒めている。他にもおぎやはぎ、テツandトモらの芸も評価している。一方で不出来な弟子には相当辛辣である。
- 爆笑オンエアバトル(NHK)は「とてもすばらしい番組」と語るように談志が特に気に入っている番組である。チャンピオン大会では3度(第1回、第2回、第5回)特別審査員を務め、出演者に秘密で客席で観戦した。当時のチャンピオン大会では、談志が特に気に入った芸人に特別賞を与えており、第1回は底ぬけAIR-LINE、第2回はラーメンズが受賞している。
- M-1グランプリ(テレビ朝日系列)の第2回大会の審査員も務めている。M-1での評価の仕方は非常にはっきりしていて、秀作には80点、良作には70点、駄作には50点(与えられたのは、スピードワゴンのみ。下ネタを扱ったネタであったことで酷評しているが、後日なぜか評価している。)の三段階しか存在しなかった。またテツandトモに対して、彼らが既に芸人としての十分な実力や地位を確立している事を認め、「若手」の漫才ナンバーワンを争うM-1という舞台はもはや彼らには相応しくないとの理由から「もういいよ。ここはお前らの来るところじゃない」と発言している。しかし、言葉に対しての補足が無かった事と、松本人志が「これ(テツandトモのネタ)を漫才として取るかどうか」という趣旨の発言をした直後だった為、談志の発言は「漫才の大会はお前達の来るところじゃない」というニュアンスで解釈され、会場の空気を悪くしたと同時に一部の視聴者を誤解させた。そして第2回大会で優勝したますだおかだに賞金を渡す役を負った際、「(優勝は)もらった、と思ったはずだぜ。思わなきゃ芸人じゃねぇよな。したたかだったよ・・褒めてやる!」と談志ならではの評価をした。
- 2005年のNHK紅白歌合戦の司会がみのもんたに決定した時、「あいつが司会をやるようじゃ紅白も終わったな」と発言しているが、2004年度より視聴率が上がった結果になってしまった。しかし、嫉妬をしながら、NHK紅白歌合戦、Dynamite!!が嫌いだったことをカミングアウトをした。但し、1999年に友人である中村勘九郎が司会を務めていた紅白に、抜き打ちで登場したことがあり、みのが司会を務めるフジテレビ系「クイズ$ミリオネア」にも出演したことがある。
- たかじんnoばぁ~に出演した際には、やしきたかじんに酷評され、「出て行け」などの発言で犬猿の仲に発展したことがある。現在でも、たかじんの司会ぶりに対して、容赦なく批判をしている。
- 元々大阪に対しては合わない面があり、上述の通り吉本興業に対しては辛辣な面がある。ただし、横山ノックに対しては評価しており、漫画トリオが上京した際には進んで「友達になりましょう」と手をさしのべている。(上岡龍太郎の証言による。)この他、桂米朝には敬意を表しており、桂文枝を好きな上方噺家の一人として挙げている。
- 桂三枝の「創作落語」に対して評価は低いが、その取り組む姿勢については評価をしている。一方の三枝は談志を尊敬する落語家の一人に挙げ、敬意を表している。なお、両者の関係は当代の快楽亭ブラックが談志をしくじった際、一時三枝一門に転じていた縁がある。この点について談志は三枝に恩義を感じている。
- この他、桂枝雀の「笑いは緊張と緩和の連続である。」の説を正しいと支持してしながらも、彼の芸については全く評価をしていなかった。また桂ざこばについては「自称落語家」とにべもない。更に笑福亭仁鶴については「大嫌い」だとしている。上岡龍太郎が島田紳助の話題を振ると(上岡は紳助のことを買っていた)、「贅六野郎には興味がない」と話を打ち切った。一方、月亭可朝とは友好関係がある。
- ダウンタウン
- ダウンタウンに対して、たくさんいるつまらない若手芸人の一組としての認識しかなかったが、後年初めて「ガキの使いやあらへんで!」を見て「これはまさしく漫才の間だ」と評価し「見損なっていた」と評した。のちに松本プロデュースのビデオ「ビジュアルバム」が出たときのテレビ朝日「HITOSI MATUMOTO VISUALOVE」という特番で、コメントを寄せたりもしている。
- 爆笑問題
- 爆笑問題がデビューしたての頃、太田の持つ才能をすぐに見抜き、高評価した談志は太田に対し、「天下、獲っちゃえよ」と応援すると同時に「(相方の)田中だけは切るなよ。こう出来た奴も、なかなか居ないもんだ」と田中が太田にとって欠かせない存在である事を説いた。憧れの存在であった談志に言われた事を太田は実践している。田中に対して「悩みが存在しないのが不思議」、「全く成長していない」、「人間として気持ち悪い。」と田中をコケにする発言を連発しているものの一度も「解散」を持ちかけた事は無い。むしろ太田のちょっかいにキレた田中が勢いで「解散」を口にしている。
- 談志は太田光を我が子の様に可愛がっており「太田は俺が他の女と作った息子だよ。」とまで発言している。しかし、これを真に受けた女性週刊誌が本気にして談志へ取材に来たという事があった。
- 桂歌丸
- 『笑点』放送開始当初のメンバーの中で、桂歌丸だけが唯一きちんとリアクションの取れる噺家であると評価していた。『笑点』降板後も「『笑点』の(当時の)メンバーはろくに挨拶に来ねぇ。来るのは、歌さんくらいだ。」と語り、歌丸も東京スポーツでのインタビューで「談志さんが恩人(なら、圓楽さんは友)」と語るほど仲は良い。
- なお歌丸によれば、『笑点』開始までお互いの接点は殆ど無かったとのことである。せいぜい東宝演芸場の楽屋で顔を合わせるぐらいであったが、その時から談志は歌丸の力量を見抜いていたとも言われる。
- 三遊亭圓楽
- 三遊亭圓楽を「あたしゃ圓楽が嫌いです」と公言している。これは、自分の方が早く入門し、落語の技量も自分より上では無いと思っていたのに真打昇進で先を越されたことや、『笑点』の大喜利メンバー全員入れ替え事件(詳細は笑点の項目を参照)などが理由として挙げられる。現在も圓楽を「下手な落語家」の例えとして挙げているが、これらはお互いが通じ合った上で語っている事(つまり、付き合いの長い圓楽だからこの程度までは洒落で通じる)とも取れる。
- 圓楽が寄席「若竹」を東陽町に開業した際に、圓楽は「落語家の純粋培養を行う」と意気込んでいたが、談志はすぐにダメになるとこれを見限っていた。やがて「若竹」は廃業に追い込まれる事になるが、その際圓楽は「松岡(談志の本名)の言う通りだった。」と自らの失敗を認めた。
- ビートたけし
- ツービートを真っ先に「面白い」と最初に認めたのが縁で、ビートたけしと親交が深い。ただし、双方とも洒落のきつい性格のため、癌から生還した際、「あのじじい、またくたばりぞこないやがって(笑)」とたけし流のエールを送った。また、破門騒動の中、たけしのオールナイトニッポンに一門で出演した際、たけしは、「何故破門されたか?」ではなく、「これからどんな事をやっていくのか?」と問いかけ、彼なりの気遣いを見せていた。
- ダンカンの移籍について、談志はたけしにダンカンを押しつけ、拒むたけしに腕ずくで移籍を認めさせたという。
- たけしは高田文夫に誘われ、立川流Bコースに入門。錦之助の前座名を与える。談志がたけしをして「俺の弟子」と呼ぶのはこの一件に由来する。なお、たけしは現在落語家としての活動を一切行っていない。
[編集] 著書
落語口演の活字化のほか、落語に関するエッセイ的な考察を多数著している。談志襲名後間もない時期から著した『現代落語論』が代表作と言える。修業時代から生に接した有名無名の寄席芸人・俳優・歌手・ストリッパーなどの系譜に非常に詳しく、『談志楽屋噺』など芸能史を語る貴重な回想録もある。
- 『現代落語論』
- 『あなたも落語家になれる』
- 『談志人生全集』
- 『立川談志独り会』
- 『新釈 落語咄』
- 『談志楽屋噺』
- 『食い物を粗末にするな』
最近の著作では「原稿の校正をしない」というポリシーを表明しており、エッセイでは大幅な脱線が付き物となっている。また、『理解らねぇ(わからねぇ)』『出演った(やった)』など、独特の表記をする。
また文章内で同じ語を繰り返す表記の際、古典文学や民謡の歌詞を表記するのと同じく、踊り字(くの字点)を使うことを習慣としている。芸事から教養を得た人物らしく古風なこだわりと言えるだろう。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
公式サイト
ファンサイト
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