森千夏
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森 千夏(もり ちなつ、1980年5月20日-2006年8月9日)は、平成期に大活躍した日本の陸上競技選手。女子砲丸投げ日本記録保持者。日本記録を7回も更新し、世界と大きくかけ離れていた砲丸投げを世界レベルに押し上げ、東京オリンピック以来40年ぶりにオリンピックに出場するなど、砲丸投げのレベルアップに大きく貢献した。しかし、病魔に冒され、26歳の若さでこの世を去った。
[編集] 経歴
東京都江戸川区出身。江戸川区立清新第二中学校時代から砲丸投げを始め、全日中で活躍。1996年、東京高等学校に入学。名将小林隆雄の指導を受け、才能が開花。1998年、丸亀インターハイ女子砲丸投げで優勝。
1999年、国士舘大学体育学部に入学し、青山利春の指導を受け、アジアジュニア選手権で3位に入り銅メダル獲得。このころから中国選手の技術を取り入れはじめた。2000年、16m43の日本新記録を樹立。アジア選手権では準優勝。2001年、日本選手権で初優勝。2002年、浜松中日カーニバルで17m39の日本新記録を樹立。釜山で開催されたアジア大会に日本代表として出場し5位に入る健闘を見せた。
2003年、スズキに入社。同期入社には2005年ヘルシンキ世界選手権女子走り幅跳び代表の池田久美子がいる。入社直後の兵庫リレーカーニバルで17m53の日本新記録を樹立。同年日本選手権で2回目の優勝。日本人女子砲丸投げ選手として初めて世界選手権代表に選出される。世界選手権は惜しくも予選で敗退したが、アジア選手権では3位に入った。2004年、18m22という驚異的な日本新記録を樹立した。日本選手権では豊永陽子に競り勝ち2年連続優勝。オリンピック参加標準記録を突破し、アテネオリンピック代表に選出された。
[編集] 虫垂がん、若過ぎる死
しかし、アテネ五輪代表決定の直後から体調に異変を感じ始め、満足な練習ができないまま五輪本番をむかえ、あえなく予選落ちとなる。帰国後入院し、膀胱炎と診断された。一時は練習を再開したものの、極度の体調不良により入退院を繰り返す。検査の結果、かなり重篤な症状であることが判明。2005年夏、開腹手術に踏み切ったが、悪性の腫瘍が取り除けなかった。2005年はまったく試合出場ができなかったため、2006年3月をもってスズキとの契約は解消された。病名の公表は控えてきたが、同年4月、虫垂がんに冒されていることを公表。虫垂がんは非常に症例が少なく、森の希望した治療が保険適用外のため、莫大な治療費が必要となった。そのため母校の東京高校や日本陸上競技連盟などが募金活動に乗り出し、選手仲間の池田や為末大、親交のあった阪神タイガースの下柳剛投手らも大会等で支援を呼びかけるなど、支援の輪が広がった。
しかし、2006年8月9日午前10時36分、東京都内の病院で虫垂がんで死去。26歳の若さだった。森の夭折は、陸上競技界のみならずスポーツ界全体に大きな衝撃を与えた。8月11日に通夜が営まれ、池田、為末らが涙ながらに弔辞を読み上げ、参列者の涙を誘った。12日には葬儀が営まれ、室伏広治、醍醐直幸ら1500人もの人が参列した。
特に、森と同じスズキ所属で親友だった池田は「久美ちゃん泣かないでね、って言っていそうだね。でも、森ちゃんがいないから寂しいよ...北京五輪では、私と森ちゃんの2人でメダルを取る約束をしたよね。私が絶対に北京でメダルを取って、森ちゃんの墓前に報告出来るよう頑張るから。」と泣き崩れながら弔辞を読み上げた。
[編集] エピソード
中華人民共和国の上海体育学院に短期留学を繰り返すなど、陸上界きっての中国通として知られ、頻繁に中国での合宿を組んでいた。趣味は桃太郎電鉄。ヤマザキナビスコの「チョコチップスナック」が大好物。2005年ヘルシンキ世界選手権男子槍投げ代表の村上幸史はスズキの元同僚、チームミズノアスレティック所属の大橋忠司は大学の後輩、元女子800m日本記録保持者の西村美樹は東京高校の後輩にあたる。アテネオリンピック柔道金メダリストの鈴木桂治は大学の同級生で、一緒に追試を受けた仲であったという。下柳の愛犬・ラガーをお姫様だっこできた唯一の女性であったという。