森山欽司
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森山 欽司(もりやま きんじ、男性、1917年1月10日 - 1987年5月2日)は、日本の政治家、外務官僚。元科学技術庁長官・運輸大臣。立憲政友会から1928年の第1回の普通選挙に立候補した弁護士の森山邦雄は父。元法務大臣の森山眞弓は妻。没後に正三位を追賜。
[編集] 来歴・人物
現在の東京都港区に生まれる。東京府立一中、旧制静岡高等学校を経て、1941年東京帝国大学法学部を卒業し、外務省に入省する。戦後は終戦連絡中央事務局の連絡官としてGHQ当局との折衝にあたり、その後物価調査会事務局長を経て、1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主党公認で旧栃木1区から立候補し当選。以後当選13回を数える。
国民民主党,改進党を経て、保守合同自由民主党立党後は三木武夫派に所属し、後身の河本敏夫派では代表世話人を務める。2度の衆議院社会労働委員長、同建設委員長、第2次池田内閣で郵政政務次官等を経て、1973年 第2次田中角榮内閣第1次改造内閣で科学技術庁長官、1978年第1次大平内閣で運輸大臣として入閣した。長年、自民党の労働問題調査会の事務局長、会長を務め、政府、3公社5現業、公社公団、特殊法人の労働問題にかかわった。1987年4月29日勲一等旭日大綬章受章。
リベラル色の濃い三木派の中では珍しくタカ派。1950年代から、教育正常化運動の先頭に立ち、日教組と激しく対立した。地元の栃木県における日教組の組織率は、全国で最低水準となった。1960年の、郵政政務次官時代には、違法ストに対し厳正な処分で応じ、郵政当局の労務政策を転換させた。1969年には、司法の偏向を批判し、国会で平賀書簡問題に端を発した青年法律家協会問題(当時の議長は、佐々木秀典)を取り上げた。科技庁長官時代の1974年、原子力船「むつ」の出航に対する漁民の反対運動について、「こんな抵抗は慣れており、祝辞の一つだと思っている」などと不用意な挑発的言辞を弄し、漁民の怒りの火に油を注いだ。三木内閣では、幹事長代理などを務め、毛利松平、丹羽兵助らと共に、党内基盤の弱い首相を支え、お辞儀三人衆と呼ばれた。1979年には全逓の生産性向上運動反対闘争(いわゆる“反マル生闘争”)に対し、自民党労働問題調査会会長として、解雇を含む組合員の大量処分に主導的な役割を果たした。同年、運輸大臣として、所管の日本船舶振興会の笹川良一会長や全日空の安西正道社長に引退を勧告し、実力次官といわれた住田正二を在任1年で更迭、カラ出張による不正経理が発覚した鉄建公団の川島廣守総裁ら5理事を更迭するなど首切り欽司の異名をとった。1980年には、教科書問題を考える議員連盟(会長 林健太郎)を設立し、幹事長として、国語や歴史教科書が、歴史や伝統を否定的に記述していることを批判した。
カメラ業界との関わりが深く、日本写真機光学機検査協会(現日本カメラ財団)を自ら創立、亡くなるまで、理事長を務め、海外では「ミスター・ジャパニーズカメラ」の異名で知られていた。
1987年5月2日急性心不全のため死去。享年70。評伝に屋山太郎と伊藤惇夫共著による『森山欽司-反骨のヒューマニスト-』小学館、1988年がある。
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