植田正治
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植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 2000年7月4日)は、日本の写真家。
日本国内はもとより世界的にも著名な写真家であり植田の演出写真は写真誕生の地であるフランスで日本語表記そのままにUeda-cho(植田調)という言葉で広く紹介されている。 生地・境港を拠点に70年近く写真活動を行った
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[編集] 経歴
鳥取県西伯郡境町(現境港市末広町)に生まれる。生家は境町で最も古い履物店であり祖父・文太郎以来「下駄屋」の商号で町民から親しまれていた。 小学生の頃に写真をはじめ、米子写友会、日本光画協会、中国写真家集団、銀龍社などに参加。写真雑誌のコンテストでも、多数の入選を得るなど、戦前、戦中、戦後にかけて活躍。 特に、1980年代以降、展覧会が多く開催され、また写真集が多数出版され、現在にいたる。 数ある作品の中でも、鳥取砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」はよく知られている。
植田の作品を一言でいえば、「個人的な」「演出」であり、戦前から戦後の現在にいたるまで、一貫して変わることはない。これは、土門拳らが主張した、「絶対非演出」のリアリズム写真とは対極をなすものであり、また、名取洋之助に言わせれば、社会性が欠けている、あるいはお芸術写真と批判されるべきものでもあろう。
しかし、植田作品を、そういった観点により切り捨ててしまうことは、作品の質の高さ、また、作品の先駆性から考えると、困難である。例えば、戦後まもなくのタイミングで、自分も写りこんでいる家族による演出写真(単なるセルフポートレートではない)を制作しているのは、驚くべきことである。 植田作品のこの特質は、土門・名取の時代以降の、主観や演出に傾く日本の写真傾向と合致し、また、その後に大きく興隆する 広告写真、ファッション写真(本来「演出」を基本とする)とも親近性があったこともあり、次第に評価が高まり、現在にいたっている。
又、歌手の福山雅治との交流は福山がCDジャケットの撮影を依頼したことをきっかけとして始まったという。
[編集] 年譜
- 1913年:鳥取県西伯郡境町(現・境港市)に植田常寿郎 ミヤの二男として生まれる
- 1931年:鳥取県立米子中学校(現・米子東高等学校)卒業 米子写友会入会
- 1932年:上京しオリエンタル写真学校に入学、3ヶ月間通う。帰郷し自宅で植田写真場を開業。
- 1937年:中国写真家集団創立同人となる
- 1946年:戦後第1作「童」が朝日写真展覧会特選に入選
- 1947年:写真グループ「銀龍社」に参加
- 1955年:二科会写真部会員となる
- 1958年:ニューヨーク近代美術館でのエドワードスタイケンによる企画展に「雪の面」を出品
- 1975年:九州産業大学芸術学部写真学科教授(待遇)に就任(~1994年)
- 1978年:フランスからアルル・フォト・フェスティバルに招待される 作品数点がフランス国立図書館のコレクションに入る
- 1979年:島根大学教育学部非常勤講師就任(~1983年)
- 1993年:東京で大規模な個展が開催される
- 1994年:フランス文化庁が20作品購入
- 1995年:鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館
[編集] 受賞
- 1954年:「棚の下の水面」により第2回二科賞受賞
- 1975年:「音のない記憶」で第25回日本写真家協会賞年度賞受賞
- 1978年:文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける
- 1985年:勲五等双光旭日章
- 1988年:第4回東川賞国内作家賞受賞
- 1996年:フランス共和国芸術文化勲章シュバリエ受章
- 1998年:第1回鳥取県県民功績賞受賞
[編集] 日本語による主要参考文献
- 「芸術写真の時代 米子写友会回顧展 大正末期~昭和初期」図録/米子市美術館/1990年
- 「植田正治とその仲間たち 1935‐55」展図録/米子市美術館/1992年
- 「植田正治の写真」展図録/東京ステーションギャラリー/1993年
- 植田正治(日本の写真家・第20巻)/岩波書店/1998年
その他写真集多数
なお、植田正治近辺の情報や作品の掘り起こしに尽力した米子市美術館の業績は高く評価されるべきである。