楔形文字
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楔形文字 | ||
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類型: | ピクトグラム 後に音節文字の要素も加わる | |
言語: | シュメール語 アッカド語 エラム語 ヒッタイト語 リウィア語 フルリ語 ウラルトゥ語 |
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時期: | 紀元前3500年頃から | |
親の文字体系: | (先文字時代) 楔形文字 |
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子の文字体系: | 古ペルシア語楔形文字、ウガリット文字 | |
ユニコード範囲: | U+12000–U+1236E (シュメール=アッカド語楔形文字) U+12400–U+12473 (楔形文字数字) |
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楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ)とは、言語の表記に用いられた文字としては最も古いものである。紀元前3500年頃にシュメール人によって発明された。元は象形文字としての性格が強かったが、長期間繰り返し使われるうちに、次第に単純化・抽象化されていった。シュメール文字はアッカド語、エラム語、ヒッタイト語、リウィア語(en:Luwian language)に借用され、また古ペルシア語楔形文字やウガリット文字などの独自の文字の発達を促した。
目次 |
[編集] 発展
最初期の象形文字は、粘土板の上に縦の枠を設け、ペン、すなわちアシで作り先を尖らせた尖筆で書かれた。2つの発展が書く過程を速くし、また簡便にした。文字は水平の欄に書かれるようになり、象形文字はみな時計回りに 90° 回転させて書かれるようになった。また新たに先を楔形にした尖筆が使われるようになり、粘土板に押し当てて用いられるようになった。書き手は一つの道具を用い、押し当て方に変化を設けて使うようになった。
楔形文字の粘土板は恒久的な記録とするために窯で焼くこともでき、また恒久的に残す必要がないなら再使用することもできた。考古学者が発見した多くの粘土板は、粘土板が保存されていた建物が軍隊の攻撃時に焼かれ、結果的に焼成されて保存されたものである。
楔形文字は本来シュメール人によってシュメール語記録のために発明されたものである。しかし、次第に近隣の他の民族に借用されていった。アッカド、バビロニア、エラム、ヒッタイト、アッシリアで楔形文字はそれらの民族固有の言語を書くのに用いられた。楔形文字はメソポタミア全域で3000年にわたって用いられた。とはいえ、シュメール人が磨き上げた楔形文字本来の音節文字的な性格は、セム語族の言語話者には容易には理解されなかった。シュメール文明が再発見される以前は、多くの言語学者がこの事実に促されて、バビロニア文明に先立つある文明を仮定した。
シュメール楔形文字の後世の借用は、少なくともシュメール文字のいくつかの特徴を保存している。アッカド語文献は、シュメール語の音節を著す音節文字と一語にまるごと対応する象形文字を含んでいる。楔形文字の多くの文字が、音節と意味の両価を示している(en:polyvalent)。楔形文字がヒッタイト語を書くのに借用されたとき、アッカド語の象形文字的な書き方が加えられ、その結果多くのヒッタイト語の単語が象形文字的に書かれたため、その音価を今日推定することはもはやできなくなった。音節文字と象形文字の複合した筆記システムの複雑さは、日本語の筆記システムの複雑さと比べることができる。日本語が漢字で書かれる場合は、ある文字は表音的で、ある文字は表意的に用いられ、文脈によって音価がまちまちに取られる。また、漢字から発展した純粋に表音的なカナもまた用いられる。楔形文字で書かれたヒッタイト語もまた同じような表記体系を持っていたのである。
表記体系が複雑だったため、楔形文字にはいくつもの簡略化された系統が発展した。古ペルシア語は簡略化された楔形文字の組み合わせによって書かれた。古ペルシア語楔形文字は、単純な、アルファベットのような音節文字で、一つの組を表す楔形文字の画数はアッシリア文字で使われたよりはるかに少ない。頻繁に使われる「神」や「王」といった語は表意化されている。ウガリット語はウガリット文字を使って書かれた。これは楔形文字的方法で書かれた、標準的なセム語形式の文字(アブジャド:en:abjad)であった。
アラム語の使用がアッシリア帝国の治下で広汎に拡がり、アラム文字が次第に楔形文字に取って代わっていった。現在知られている楔形文字の最後の例は、紀元後75年に書かれた天文学上の記録である。
[編集] 解読
ヘンリー・ローリンソンによって1835年に再発見された。ローリンソンはイギリス陸軍の士官で、ベヒスタン碑文のいくつかをペルシアのベヒスタンにある崖で発見した。碑文はダレイオス1世の治世下(紀元前522-486年)に刻まれており、ペルシア帝国の三つの公用語、古ペルシア語、バビロニア語、エラム語で書かれた同一のテキストであった。ベヒスタン碑文が楔形文字解読に果たした役割は、ロゼッタ石がヒエログリフ解読に果たした役割に相当する。ローリンソンは古ペルシア語楔形文字が音節文字であると正しく推論し、その解読に成功した。
これとは別に、アイルランド人のアッシリア学者エドワード・ヒンクスもまた解読に貢献した。
ペルシア語を翻訳した後、ローリンソンとヒンクスはもう一方の解読を始めた。ポール・エミール・ボッタが1842年に都市ニネヴェを発見したことで、二人は大いに助けられた。ボッタによって発掘された宝物のうちにはアッシュールバニパルの大書庫、楔形文字に覆われた焼かれた粘土板数万点を有する王家の文書庫の遺跡があったのである。1851年には、ローリンソンとヒンクスは200のバビロニア文字を読むことに成功した。
ローリンソンとヒンクスはほどなく、新たに二人の異なる解読者と協同するようになる。ドイツ生まれの若い学者ユリウス・オッペルトと、学識に富むイギリス人東洋学者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットである。
1857年には4人がロンドンで会合し、解読の正確さを試す有名な実験を行った。イギリス王立協会の書記エドウィン・ノリスが、4人それぞれに、最近発見されたアッシリアの皇帝ティグラトピラセル1世の治世下に書かれた、碑文の写しを渡した。翻訳中は4人の情報交換は禁止された。
そして学識経験者からなる審判が集まり、4人の翻訳結果を精査し、その正確さを評価した。
4人が行った翻訳はすべての主要な点で、「ここは間違いないだろう」と自信を持った所は他の翻訳者と一致した。「もしかしたら違うかも知れない」と思った所は些細な異同があった。4人のなかでは経験の浅いタルボットは多くの間違いを犯し、オッペルトの翻訳は英語に不慣れなことから来る、幾つかの意味が取りにくい部分を含んでいた。しかしヒンクスとローリンソンの翻訳はほとんど同一であった。
審判は結果に満足したと発表し、またアッカド語楔形文字の解読は達成されたと宣言した。またこの後、ある壷に描かれていたアッカド語楔形文字とエジプト象形文字が、全く同じ意味である事が発見され、解読達成の裏づけとなった。
[編集] 翻字
詳細は楔形文字の翻字を参照。(未訳)
楔形文字には専用の翻字法がある。楔形文字は多価であるため、翻字により、情報落ちが発生するどころか、元のテキストよりも情報量が増える。例えば、ヒッタイト語テキストの文字DINGIRはヒッタイト語の音節anを表すことも、アッカド語の語句の一部のilであることも、元来のシュメール語の意味である神を表すシュメール文字であることもありうる。
[編集] ユニコード
楔形文字はユニコード5.0に含まれている。
- 12000–12373 (883 文字) ["Sumero-Akkadian Cuneiform" シュメール=アッカド語楔形文字]
- 12400–12473 (103 文字) ["Cuneiform Numbers" 楔形文字数字]
[編集] 関連書籍
Jean-Jacques Glassner (translated and edited by Marc Van De Mieroop and Zainab Bahrani, The Invention of Cuneiform: Writing in Sumer, Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2003.