江亢虎
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江 亢虎(こう こうこ、1883年 - 1954年12月7日)は、中国の政治家・左翼運動家。
江西省出身。12歳の時に北京の東文学堂に入り、1901年に日本に留学。以降1903年・1907年と日本留学を果たすが、その過程でアナキストと交わり社会主義思想に傾倒。1910年から翌年にかけて欧州各国を訪問した後に上海で社会主義研究会を組織し、1911年11月に社会主義研究会を改組して中国社会党を結成する。
結党当初の社会党綱領にはアナキズムの影響も見られたが、翌年には早くも改良主義的傾向を明確化、アナキスト系が党外へと去った。1913年に袁世凱によって社会党を解散させられると、渡米してカリフォルニア大学で講師を勤めた。1920年に帰国の後1921年ソ連を訪問し、モスクワで開催されたコミンテルン第3回代表大会に参加。おそらく中国人としては始めてレーニンと会見している。この頃、彼は民主集中制と少数の指導層による革命を指向していたと言われるが、帰国してからは反共を前面に出した新社会主義を主張。折しも陳独秀・李大釗らによって1920年に中国共産党が結成され、以降中国の左翼運動は共産党が中心となっていく。
1924年に社会党を再結成(翌1925年に中国社会民主党と改称)したが、北伐の進展の中で同党は解散。1927年に再度渡米し、カナダの大学で教鞭を取った。1933年に帰国の後は保守・反共著述に専念した。日中戦争勃発後は香港に逃れたが、1939年に汪兆銘の要請を受けて上海に赴く。「双十節対時局宣言」を発表し中国文化を中心として東亜新秩序を樹立することを主張し、1940年に汪兆銘政権が成立すると国府委員・考試院副院長・同院長を歴任。
戦後、漢奸として逮捕され、1954年上海の獄中で病死。