池淵家
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[編集] 概要
江戸時代から明治にかけて境港地方に3軒の「池淵」という医家があった。境町の池淵玄達、上道村の池淵令寿、上道村分家で境町の池淵碩庵の三医家である。もとは中野村の出身で中野から上道に出た池淵令寿家が中心とされる。いづれも中野村正福寺の檀家である。
[編集] 系譜
- 上道・池淵氏 三代目三右衛門は学問にすぐれ仏門に帰依し大坂、高野山に度々往来し苗字帯刀を許されていたという。五代目勘兵衛は医師をしていたか明らかでない。六代目恕軒は多くの医師、文士と交友があり思想家頼山陽とも親交あった。七代目令寿も医師となりこの頃池淵家は富裕であったのか天保7年の飢饉の折に施粥を行いその施粥帳が残されている。令治は医術を学ぶため大坂に出て中ノ島の儒者安藤太郎家に滞在したが修行中コレラで病死したたため弟・彦平が跡を継いだ。彦平は医師であったかどうか明らかでない。九代目麗寿は万延元年(1860年)から文久二年(1862年)まで中野村の景山粛の門に漢方医術を学び更に松江の錦織春象について漢蘭折衷医術を学んだ。元治元年(1864年)上道村で開業した。明治年間この地方の名医として評判であった。
三右衛門━三右衛門━勘兵衛━恕軒━令寿┳令治 ┗彦平━麗寿━達三━昇一
- 上道分家・池淵氏 初代の俗名は不明。本家六代目恕軒の弟が分家したものと思われる。二代目如仙は境村朝日町で開業した。三代目碩庵も朝日町で開業した。又、同地で寺子屋を安政2年(1855年)より明治4年(1871年)まで開いた。
「大医如水居士」━如仙━碩庵━高輝━清次郎
- 境、栄町・池淵氏 中野村出身であり玄造の代になって境に移ったという。二代目玄達は玄造の甥で若くして中野村の景山粛に医術を教えられた。粛の娘・りんを嫁にもらい境村栄町で開業し大いに繁盛した。竹治郎長男貢は明治40年(1907年)東京慈恵医専を卒業し更にアメリカに渡りカリフォルニア市他各州の病院で研修し大正二年(1913年)帰国し境町栄町で開業した。貢長男正賢は昭和14年(1939年)京都大学医学部を卒業し陸軍軍医となったが戦後帰国し米子医専(現鳥取大学医学部)の外科教室に勤めた。昭和23年(1948年)上道村で開業していたが翌年より栄町に戻って開業した。正賢長男滋雄は鳥取大学医学部を卒業し鳥取大学第一内科に勤務したが現在は栄町に戻り開業している。
玄造…玄達┳龍雄 ┗竹治郎━貢┳正賢━滋雄 ┗成
[編集] 参考文献
- 『続 因伯の医師たち』 森納
[編集] 関連
[編集] 外部リンク
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