河野安通志
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河野 安通志(こうの あつし、1884年3月31日 - 1946年1月12日)は、石川県出身のアマチュア野球選手、及び日本初のプロ野球チーム創設者。父は河野通理で、加賀藩士。妻の河野いゑは飛田忠順(穂洲)の妹。
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[編集] 生涯
[編集] 早稲田のエース
1897年一家は横浜に転居し、野球に親しむようになる。旧制横浜商業学校から1903年早稲田大学入学後、創設して三年目の野球部に入部、第1回早慶戦の先発に抜擢された。この試合は9-11で敗れるが、その後エースとして活躍、「日本一」に貢献。
1905年、野球部長の安部磯雄は日本一の褒美として、大隈重信学長に史上初のアメリカ遠征を願い出た。片道の渡航費5500円を借り受け、米国西海岸を転戦。各地の大学や軍隊のチームと26試合を行い、7勝19敗だったが、河野は24試合に登板、現地で「"Iron Kouno"(鉄人河野)」と呼ばれた。また、この遠征で、日本で初めてワインドアップ投法や緩急をつけた投球を習得したといわれる。
[編集] プロ野球創設と挫折
1920年、押川清、橋戸信と共に、日本初のプロ野球チーム日本運動協会(芝浦協会)を創設。河野らはフランチャイズの理想を追求し、まず本拠地となる芝浦球場を建築。
1922年よりアマチュアチームを相手に試合を行い、河野は監督に就任。当時人気・実力とも最高峰の古巣・早大野球部に善戦したことで、一応の軌道に乗りかける。また、翌1923年6月23日には、京城の竜山満鉄グラウンドで天勝野球団と対戦。天勝野球団もまた、日本運動協会に遅れること1年で結成されたプロ野球チームであり、史上初のプロチーム同士の対戦となった。5-6で日本野球協会が敗れたが、通算では2勝1敗と勝ち越した。
しかし、同年の関東大震災で内務省により芝浦球場が「震災復興基地」として差し押さえられた。しかも内務省からは返還の予定期日さえ明言がなく、借地料の支払いも一切なかった。一方、大学のグラウンドはどこも接収されなかった。これは野球を職業とすることへの偏見が強かったためであった。このため1924年1月23日解散を余儀なくされる。
しかし、同年阪神急行電鉄の小林一三の支援を受け、本拠を宝塚球場に移転、チーム名を宝塚運動協会と改称し再建。1929年、世界恐慌により宝塚運動協会が解散すると、小林に宝塚音楽学校校長としてとどまるよう誘われるが、河野はこれを断り東京に戻った。一時的に早稲田大学野球部に戻り、総務となった。しかし、時折グラウンドに出て選手に指示を与えたことから、監督の市岡忠男は現場への介入と見て不愉快に思った。さらに、福田宗一投手の入学をめぐって対立し、最終的に河野が折れ福田投手は入学したが、市岡はこれを機に辞任を決意。読売新聞社に就職した。
1936年プロ野球リーグが結成されると、河野は名古屋軍の総監督として迎えられたが、後楽園イーグルス設立のため1937年退団。理想の球団を目指しイーグルスを創設した。
太平洋戦争が始まると、河野は個人的には勝てない戦争と考えていた。しかし戦局が不利になる中、戦争協力に全力を尽くすため、1943年大和軍と名を改めていた球団の解散を決意。選手の大半はヂーゼル自動車工業に引き取られ、自らも敗戦まで籍を置いた。一方、市岡は読売で大日本東京野球倶楽部の創立に参加し、総監督、のちに球団代表となった。市岡は河野とたびたび衝突したが、巨人の権勢を背景にした市岡の勝利に終わるのが常であった。たとえば、1940年ペナントレースでは「満州遠征」により海外での公式戦が行われた。河野は遠征団長を務め、翌年の開催を地元の主催者にも約束していた。ところが、市岡は翌1941年の「満州遠征」開催に反対し、中止にさせてしまった。
1945年日本が敗戦すると、河野は旧大和軍の選手たちに呼びかけ、12月のある日、東京カッブスとして日本野球連盟会長の鈴木龍二に加盟を申請。しかし、ここでも東京巨人軍の市岡代表が「(河野は)自ら進んで大和軍を解散したのだから」と猛反発。このため鈴木は正式な加盟審査に掛けることなく、申請を握りつぶした。鈴木は著書『プロ野球と共に五十年(上)』で「否決されてしまった」と審査に掛けたかのように書いているが、実際には他球団のオーナーは申請の存在を知らされておらず、巨人の意向がそのまま通った形になった。鈴木は河野に同情的であったが、巨人の意向を絶対視していたものと思われる。
河野はまもなく死去したため、正式な却下の報せを受けていたかもわからないという(記録上は、河野の死の直後である1946年1月22日の緊急理事会で却下)。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 小川勝『幻の東京カッブス』(1996/4 毎日新聞社 ISBN 4620311022)
- 鈴木龍二『鈴木龍二回顧録』(1980 ベースボール・マガジン社 ISBN 4583019505、『プロ野球と共に五十年(上) 私のプロ野球回顧録』と改題 1984/10 恒文社新書 ISBN 4-7704-0593-6 絶版)
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 早稲田大学野球部の選手 | 野球殿堂 | 石川県出身のスポーツ選手 | 1884年生 | 1946年没