早慶戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
項目統合の提案:早慶レガッタは、この項目への統合が提案されています。統合に関する議論はノート:早慶レガッタを参照してください。 |
早慶戦(そうけいせん)は、早稲田大学と慶應義塾大学との対校戦である。主にスポーツ(特に野球)での対戦であるが、スポーツ分野以外でもこの両校の学生サークルが実施する討論会などで使用されることがある。
なお、慶應義塾関係者は「慶早戦」(けいそうせん)と伝統的に呼ぶが、塾内行事の名称としては「早慶戦」を使用している。
目次 |
[編集] 硬式野球
早稲田と慶應による野球戦は「早慶戦」の起源であり、一般に「早慶戦」という言葉はこの野球戦を指す事が多い。この早慶両校の野球チームの対抗は、現在のような各種野球大会・対抗戦・競技団体組織が未整備だった当時創世紀の日本野球界やさらにスポーツ界全体においても当時大変な人気を博し、その後の東京六大学野球連盟の結成、さらに各地のアマチュア野球の形成・発展、そしてプロ野球の発足へと続く日本野球の発展に大きく貢献し、またその礎となった。このような早慶野球戦の発展(と紆余曲折)が早慶両校の対抗意識を醸成し、結果として後年には他の競技や更には学術分野にまで早慶両校間の対抗・連携にまで影響を及ぼすにようになった。
現在は東京六大学リーグ戦の最終週に組み込まれており、NHKによるテレビ中継が行われるなど、両校の学生や卒業生ばかりではなく野球ファンをも魅了している。華やかにして創意工夫に富み、なおかつ礼・節を保った応援合戦は日本の野球応援に多大な影響を及ぼしてきた(後述)。日本における野球への興味がプロと高校野球に収斂され、“中二階的”な大学・社会人野球への関心が薄れるなか、それでも早慶戦は、かつてほどではないにしろアマチュア野球では屈指の万単位の動員力を維持している。早慶両校に優勝がかかる展開となれば、学生のみならずファン・OBが神宮球場に駆けつけ神宮球場を満杯にする。優勝した側は神宮から学舎まで紅白の提灯を掲げてのパレード(“提灯行列”“提灯パレード”と呼ばれる)を行う。また、慶應が優勝した場合は銀座、早稲田が優勝した場合は新宿で盛大な飲み会があり、卒業生による奢りで、部員へ酒が振舞われる。
開催時期は春季が5月最終週か6月の第1土・日曜日、秋季が10月最終週か11月第1土・日曜日、ともに神宮球場にて行われる。(神宮球場が早慶戦を初めとする六大学野球を収容する球場として発足したことを忘れてはならない。)東京六大学野球リーグ戦は通常1週ごとに2カード組まれるが、最終週の早慶戦のみ単独開催となっている。これは、後述のように東京六大学連盟が早慶戦を起源とすることに由来したものである。リーグ戦の他に現役・OB混成チームによる「オール早慶戦」が不定期だが各地で実施される事がある。
[編集] 早慶野球戦の歴史
両校の初の対戦は1903年11月21日、三田綱町球場にて行われた。早稲田が先輩格の慶應に「挑戦状」を送達し慶應がこれに応じた事によって行われた試合である(このときの双方の書面は野球体育博物館に所蔵されている)。試合は11-9で慶應の勝利。翌1904年、当時学生野球王者と謳われた一高野球部に早慶両校が勝利すると、早慶戦は学生野球の頂点=当時の日本野球の頂点を争う試合として衆目を集めた。早稲田のアメリカ遠征後には定期戦を2勝先勝方式にし、2勝した側にトロフィーを与えることとした。現在東京六大学をはじめ多くの大学野球で採用される、勝ち点制のはじまりである。
かくて早慶両校は球界の頂点を争う存在となったが、それは同時に応援合戦の過熱も招き、1906年秋、第1戦に勝利した慶應の学生が大隈重信邸・早大正門で万歳を行えば、第2戦に勝利した早稲田の学生も福沢諭吉邸・慶大正門に大挙して万歳三唱を行うなど、両校応援団は一触即発となる。更なる状況悪化を危惧した両校当局は翌第3戦を中止、以後早慶戦は長い空白期間に入る。
1914年、早稲田・慶應・明治による三大学リーグが発足し、1917年には法政、1921年には立教の各大学がこのリーグに加わるが、早慶戦のみ行われない変則的運営であった。早慶戦復活を願うファンの声に応えるかのように両校OBによる三田・稲門戦も実施されたが、両校OBたちの反発は強く、早慶戦は再開されなかった。こうした状況を打破するため、1923年頃から明治大学が中心となり早慶戦復活を打診するが、早稲田側は同意し慶應も現役は歓迎したものの特にOB側が難色を示し続けた。1925年の秋に東京帝国大学(現在の東京大学)が加盟、これを突破口とすべく明大部長内海弘蔵を中心に「早慶戦復活に反対する者を除外して新リーグを結成する」と強硬な態度を示した事により、慶應側も早慶戦復活を受諾。東京六大学野球連盟が創設、早慶戦復活が実現した。復活した早慶第1回戦の試合前、早大部長安部磯雄がグラウンドに立ち、早慶戦復活が野球の発展にいかなる意義をもつかを、応援におけるマナーの遵守を求める請願とともに満場に訴えた。
早慶戦は再び大きな関心事となり、花菱アチャコ・横山エンタツの漫才コンビもネタに使用した。1929年秋季の対決は双方全勝同士の決戦となり、早大佐藤茂美の逆転ランニングホームランによる劇的決着は新国劇が舞台化した。球場に入れないファン向けに試合を解説する特設ステージが設けられるなど応援も再び過熱し、1933年には早大応援席から投げ込まれたリンゴを慶大三塁手・水原茂が投げ返した事に端を発した、いわゆる「リンゴ事件(水原リンゴ事件)」が発生している。このリンゴ事件以降早慶戦では、早稲田のダックアウト及び応援席は一塁側、慶應義塾のダックアウト及び応援席は三塁側に固定されることになった。この方法は現在まで踏襲されている。同時にこの頃から、早慶戦がリーグ戦の最終週に行われるようになった。
戦時体制下の1943年、東京六大学野球連盟は解散。しかし学徒出陣を前に慶應からの働きかけをもとに10月16日、戸塚球場にて「出陣学徒壮行早慶戦」(俗に言う最後の早慶戦)が行われ、試合終了後は両校選手・応援団によって「海行かば」が歌われた。選手たちの多くは戦場にかり出され、命を落とす者は少なくなかった。
終戦間も無い1945年11月18日、神宮球場にて全早慶戦が行われた。戦後初の野球試合である。当時神宮球場は米軍に接収されていた為、進駐軍の協力を得ての実現であった。全早慶戦はその後1946年1月に西宮球場で、4月に後楽園球場・高岡・金沢でも行われている。そして5月には、復活した東京六大学野球連盟によるリーグ戦が再開された。その年のリーグ優勝を春慶應・秋早稲田と分け合うと、以後1956年までの11年間22シーズン中、早慶で17回の優勝を占め、戦前に次ぐ第二の黄金時代を現出した。
その後長嶋茂雄の登場により立教にリーグ戦の主役の座を一時明け渡すが、1960年秋のリーグ戦は最終週の早慶戦で早稲田が2勝1敗した結果、早慶両校が勝ち点・勝率とも首位で並び、両校による優勝決定戦となった。一発勝負の決定戦であるが、試合は1-1の引き分け。再試合も0-0で引き分け、再々試合を早稲田が安藤元博の4連投により3-1で制し、ようやく早稲田の優勝が決定した。これがいわゆる早慶六連戦である。
早慶戦100周年を迎えた2003年11月には神宮球場にてプロアマのOBを交えた記念試合が行われた。なお、この記念試合は慶應が3-2で勝利した。
東京六大学リーグ戦における対戦成績(1925年秋~2006年秋)は早稲田195勝、慶應164勝、引き分け10。勝敗以上に、内容の濃い好勝負を展開してきた。両校で優勝を争うだけでなく、相手の優勝を阻む力闘が展開されることもしばしばあった。1971年からの慶應3連覇は、同年春早稲田に連敗(そのため法政が勝率で上回り優勝)しなければ4連覇の偉業となったところであり、1950年からの早稲田3連覇も、前年秋の慶應の雪辱なければ5連覇を果たしていたところ(早大先勝後2戦目もリードしていたが突然の豪雨でノーゲーム、雨上がりの一戦を慶應が制し早稲田が優勝を逸す)であった。1986年春は慶應が秋春連続優勝まであと1勝と迫った決勝戦、9回2死2ストライクまで早稲田を追い詰めながらまさかの逆転サヨナラ打を浴び優勝を逸した。「戦前不利と評された方が早慶戦を制する」といわれるように、実力差を越えた激戦の連続もまた、早慶戦の人気・魅力を高める一因であったといえる。
なお、東京六大学リーグ戦の優勝校には天皇杯が授与されるが、その基は戦前の摂政杯。昭和天皇は戦前1度戦後1度、今上天皇も1994年春に早慶戦を行幸している。
[編集] 早慶レガッタ
早慶野球戦に次いで行われた早慶の対校戦。概ね毎年4月中旬の日曜日に隅田川にて開催される。一般的に「早慶レガッタ」という言葉は、メインレースである「対校エイト」を指す事が多いが、実際は「対校女子舵手付クォドルプル」「対校舵手付フォア」を含めた全3種目の対戦であり、OB・OG戦、招待試合等を含めると当日は10種目以上のレースが行われている。なお「対校エイト」は例年テレビ東京によるテレビ放映が行われている。
第1回は1905年5月8日、隅田川にて開催された。野球同様、早稲田が先輩格の慶應に試合を申し入れた事に端を発している。レースは慶應有利の下馬評を覆して早稲田の勝利(第1回のみ「エイト」ではなく「シックス」によるレース)。大いに評判となった早慶レガッタだったが、早慶野球戦のあおりを受け中断、第2回開催は1930年であった。
戦時体制下、1943年の第15回大会を最後に再び中断。1944年には、観衆・審判の居ない、選手だけによる「幻の早慶レガッタ」が行われたと言われている。公式大会は終戦後の1947年に復活。
1957年の第26回大会は荒天により川面に白波が立つ中でのレースとなった。ボートの浸水が予想される中、早稲田クルーは「ボートを沈めることなくゴールする事」を重視し、ボートを漕ぐ選手とボートに浸入した水を食器で掻き出す選手に分けてレースに臨んだ。一方の慶應クルーは「選手全員で最後まで漕ぎ続ける事」を重視し、ボートが沈む前にゴールまで辿り着く事を選択した。レースは序盤慶應が早稲田を大きく引き離したが、慶應艇がレース途中で浸水により失速、そのまま沈没。早稲田は浸水を避けゴールし、審判は早稲田の勝利を宣言した。早稲田側は好天下での再レースを申し入れたが、慶應側は「審判の裁定に従う」と主張し、再レースは行われなかった。このエピソードは後に小学校6年生国語の教科書(株式会社学校図書発行)において「あらしのボートレース」という題名で取り上げられた。
隅田川でのレースは各種工事や水質汚濁の影響により1961年の第30回大会を最後に一旦中断。戸田・荒川・相模湖等に会場を移して大会を続けたのち、1978年に再び隅田川へ回帰。以降現在まで隅田川にてレースが開催されている。
過去の対戦成績(メインレース:2006年まで)は早稲田40勝、慶應34勝、同着1。
[編集] ラグビー
通常、関東大学ラグビー対抗戦グループにおける早稲田対慶應の試合を指す。例年11月23日(勤労感謝の日)に秩父宮ラグビー場にて開催される。また、3月に行われる「全早慶明三大学対抗戦」においても、現役・OB混成チームによる「全早稲田対全慶應」の試合が行われる。
端緒は創部間もない早稲田がラグビーのルーツ校である慶應に対戦を申し込んだもの。定期戦の成績は早稲田が圧倒しているが、慶應が早稲田の対抗戦60連勝を止めれば、早稲田は対抗戦3連覇を目指す慶應を撃破して今日の黄金時代の基礎を築くなど、毎年好勝負を展開している。
[編集] サッカー定期戦
例年5月~6月、国立霞ヶ丘陸上競技場にて開催される。両校とも関東大学サッカーリーグに所属するが、リーグ戦とは別の定期戦として開催されている。
第1回は1950年10月1日、神宮外苑競技場(現:国立霞ヶ丘陸上競技場)にて開催された。サッカーでは日本初となるナイターでの試合で、6-4で慶應が勝利した。
[編集] 応援合戦
ここでは野球の応援合戦について触れる。両校応援(指導)部が応援に携わらないラグビーのような例を除けば、レガッタ・サッカーなどの各定期戦で華やかな応援合戦が展開されるが、そのもとは野球におけるそれからである。
早慶戦の歴史は応援合戦の歴史でもある。掛け声から拍手、応援曲・応援歌、エール交換・・・、早慶両校は競って新たな応援歌・応援スタイルを編み出してきた。グラウンドでプレーする選手を鼓舞し、応援する学生たちに感動を与える名曲の数々は、度重なる激戦においてグラウンドと学生席を一体化する効果をなさしめ、試合前後のエール交換は、相手校への敬意・感謝・激励の行為として全国の野球応援に広く普及した。
ともすれば相手を貶め礼を失する応援(代表的なものがプロ野球における相手打者凡退時の楽曲演奏)がはびこる中、味方を熱烈に応援しながらも決して相手を貶めず尊敬を忘れない応援姿勢は、かつて早慶戦が応援の加熱から中止に至る、あるいは「リンゴ事件」などの大騒動を引き起こした苦い経験をもとにしたからであるが、今日まで日本におけるスポーツ応援の最高峰の位置を占め、日本のスポーツ応援に多大な影響を及ぼしてきた。その誇りが、ケンブリッジvsオックスフォードの対抗戦などとともに早慶戦が世界三大学生スポーツであると自称する矜持を抱かせたと言える。早慶戦の応援が醸し出す独特の雰囲気は、グラウンドで接した(プロに進んだ選手たちを含む)ほとんど全ての選手たちが言いしれぬ深い感動を覚える。
現在は早稲田大学応援部と慶應義塾大学應援指導部の両団体が学生応援をリードしている。
応援歌として代表的な作品は、1927年発表の慶應「若き血」、それに対抗して早稲田が1931年に発表した「紺碧の空」の2曲。共に現在も両校の第一応援歌として、1回・8回・9回(延長)の攻撃時、味方の得点時(1988年以前は守備中の失点時にも)に歌われている。なお、7回攻撃時の校歌斉唱の際、慶應は「若き血」を右拳を振り上げながら歌う。これは塾歌が長いために歌っている途中に味方の攻撃が終わることがしばしばあったためだと言われている。
この他、慶應が1946年に発表した応援歌「我ぞ覇者」は「よくぞ来たれり好敵早稲田」「早稲田を倒せ」という歌詞を盛り込み、作曲を「紺碧の空」の古関裕而に依頼するなど、早稲田への対抗心を露わにした作品であった。早稲田も対抗して翌1947年「慶應倒し意気あげて」の歌詞を盛り込んだ応援歌「ひかる青雲」を発表している。「ひかる青雲」もまた、古関の作曲になるものであった。このほか、慶應の応援歌は「三色旗の下に」など、藤山一郎の作曲によるものが多い。早稲田の応援歌は古関裕而作曲のものが多いが、青島幸男・タモリも作詞・作曲者に名を連ねている。
プロ野球の応援曲は選手個人のものが大半で、打者毎に演奏・歌われるのに対し、六大学の応援曲はチームに対するもので、攻撃開始時→出塁時→進塁時→チャンス時→得点時と、局面によって応援曲や拍手・コールを次々と変えて応援する。この一連の流れが味方の得点と見事にマッチしたときには一編の歌劇を見るがごとき感動をファンにもたらす。
戦後からしばらく、攻撃中の応援は拍手とかけ声、応援歌によるものだったが、早慶両校がこの応援形態に革命を起こした。
早稲田は1965年「コンバット・マーチ」を発表した。現役応援部員(当時)の三木佑二郎が、当時人気だったアメリカ作戦場ドラマ「コンバット!」のテーマ曲からヒントを得たこの作品は、従来の「応援歌」とは異なり、選手名や学校名、「慶應倒せオー」等のフレーズを曲に合わせて叫ぶ「応援曲」であった。慶應も翌1966年「ダッシュケイオウ」を発表。この2曲の登場を追って、明治の「狙いうち」法政の「チャンス法政」立教の「立教ポパイ」東大の「東大アトム」などが神宮に登場、6校で競って応援曲・応援パターンを開発してきた。これらの楽曲は高校野球の応援で多用され、それが電波を通して全国に普及、現在でも広く日本の野球応援で使用されている。また応援曲は攻撃中にとどまらず守備中にも使われてきたが、1988年の昭和天皇の重篤と周辺住民からの苦情を機に応援曲を使っての守備中応援は姿を消した。
応援スタイルにおいても、チアリーダー(1960年秋、早慶6連戦のときに慶應応援席に初登場)や吹奏楽団の使用、学ランではなくセーターを着ての応援、人文字、巨大デコレーション、紙製の角帽(早稲田)や三角帽(慶應)の使用など、両校様々な応援スタイルを考案している。
例年秋の早慶戦のみ、各学生席最上段に登場する巨大看板は早慶戦のもう一つの華で、時々の話題や優勝争いの状況などを盛り込んで、敵のキャラクターをやっつける姿が描かれたものとなっている。いずれも早慶の学生サークルが手作りしている。かつては早稲田が「フクちゃん」慶應が「ミッキーマウス」「ユニコーン」をキャラクターにしていたが、いずれも著作権の関係でか姿を消した。現在は早稲田は弘兼憲史作の熊のキャラクター(大隈(クマ)にひっかけたものらしい)、慶應は「ミッキーコーン」なるミッキーとユニコーンを足して2で割ったようなキャラクター(そのため早稲田側から「出た!遺伝子組み換え(または合体/謎の)怪獣」と揶揄されることも)が登場する。1982年秋にはのちの事態(福沢諭吉が一万円札の肖像に選ばる)に対抗心を燃やしてか、大学創立100周年にちなんで大隈重信を肖像にした「100万円札」の看板が早稲田側に登場した。
春の早慶戦は両校のサークルにとって新入生歓迎行事の一環として早慶戦が利用されることもあって、両学生席とも外野席まで使っての大応援となる。基本的に学生席内は座席指定がなく早い者勝ちとなるため、しばしば徹夜による席取りが行われてきた。これが球場周囲をはみ出して一般道にまで及んだり、酒に酔った学生が器物を壊したり、また一般人とけんか沙汰になるなど社会問題化したため、徹夜待ちは禁止となっている。 入場待ちの学生たちを統制するのは両校の応援(指導)部員たちだが、当然ながら人手が足りず、早稲田では「早慶戦支援会」、慶應では「慶早戦支援委員会」の助力を仰いでいる。 また、徹夜待ち回避のため、サークル対象に行われる事前の座席抽選や、リーグ戦観戦チケットを持っている学生(サークル)には優先して早慶戦の学生席券を売る・あるいは入場順を考慮するなどの工夫も見られている(一部には入場者数の減った早慶戦の動員増目的とも言われる)。
両校の附属校・系属校の生徒たちも学生席に入っての応援ができる。慶應側には幼稚舎の小学生たちと慶應湘南藤沢中高が三塁側に、早稲田側には早大高等学院・早稲田実業の生徒たちが外野席に入ることがある(慶應湘南や早大学院、早実の場合授業扱い。来ない生徒は欠席扱いとされる)。
早慶戦のときは1日1試合であることから、他7週の試合では見られないさまざまな応援形態を見ることができる。先に述べた巨大看板もそうだが、午前中の応援合戦や両校による「早慶讃歌」の合同斉唱、試合前の応援席どうしの掛け合い、エール交換の際の校旗入場などである。また、早慶戦のみ、応援にマイクの使用が許されており、両校の放送研究会が放送を担当する。
エール交換の際の校旗入場も早慶戦独特のもの。早稲田は「早稲田の栄光」慶應は「慶應讃歌」の吹奏のもと、応援(指導)部主将を先導に両校の第一校旗(早稲田は新大校旗、慶應は第一塾旗)が、学生席最上段から最前列に向かって入場する。応援(指導)部の所有する校旗の中でいずれも最大のものであり、入学・卒業式や早慶戦など、特別な場合にしか登場しないものである。また旗竿含め40kg以上の重い校旗を、体勢を崩さずに一歩一歩階段を下りる旗手(4年生が務め、早稲田は「旗手」慶應は「旗手長」という幹部職である)は、早慶戦応援の花形と言える。 入場の際には、それぞれの校旗・先導者・旗手の紹介を応援(指導)部員たち(主に3年生)がマイクを使って行い、先導者・旗手の紹介の際には部での役職の他に出身校・在籍学部・部での役職も紹介されながら、紙吹雪の中を行進する。出身校紹介の際には有名校・無名校に関係なく「名門!」のかけ声がかける。
この校旗入場があるため、通常は試合開始20分前にエール開始であるが、早慶戦は25~30分前にエール開始となっている(かつては内・外野別に入場式・エール交換を行っていたため、1時間前にエール開始だった)。
また、通常は応援台に一般学生が登壇することはないが、早慶戦に限っては登壇できることがある。かつては午前中に「素人演芸合戦」が行われたこともある(世を忍ぶ学生姿のデーモン小暮閣下が「田中角栄がバルタン星人に変身するまね」などの芸で人気を博した)し、秋の早慶戦終了時には卒業する4年生たちが同じくこれが最後の早慶戦となる応援部幹部・野球部員たちとともに応援台に上り校歌・応援歌を肩組みながら歌うというセレモニーが行われる(優勝したときにはなし)。
戦前は応援の過熱によるトラブルが頻発したが、現代は時代背景の変化もあり、両校は「良きライバル」としての関係を強調している。試合開始前に応援部員が相手学生席を訪れる「陣中見舞い」(早稲田側では「ダッシュワセダ」慶應側では「ワセダをた・お・せ!」に歌詞を変えた「コンバットマーチ」が歌われる)や、両校の学生が同時に歌う「早慶讃歌」等がその好例である。また小林克也作曲による「Blue Sky Waseda(Keio)」という応援歌は、試合中に同じ曲を歌詞(学校名のところ)だけ変えて早慶両校の応援席で使われる。