滝善三郎
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滝 善三郎(たき ぜんざぶろう 天保8年(1837年) - 慶応4年2月9日(1868年3月2日))は、幕末の備前岡山藩士である。名は正信(まさのぶ)。
滝は岡山藩家老・日置帯刀(へき たてわき)の家臣であり、妻と男女各1人の子があった。代々砲術の家柄であったという。
慶応4年2月9日、一ヶ月前に起きた神戸事件の責を一身に背負い、永福寺(現神戸市)において外国人検視7名を含む列席が見守る中、弟子の介錯によって切腹した。享年32。墓所は岡山市東山と伝わる。
辞世
- きのふみし 夢は今更引かへて 神戸が宇良に 名をやあげなむ
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[編集] 没後経緯
滝善三郎については、神戸事件以外の記録が見当たらない。しかし、彼の切腹は神戸事件を収拾させたのみならず、世界的にセンセーションを巻き起こすこととなる。検視に立ち会った当時のイギリス外交官ミットフォードが滝の切腹の模様を本国に伝え、それをイギリスの新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が銅版画付きで報じたためである。
当時は「切腹」と言っても短刀を腹に当てた時点で介錯が首を落とすとか、さらには短刀に代わりに扇子を使う「扇腹」(おうぎばら)などが一般的だったのだが、ミットフォードによると滝善三郎の切腹は古来よりの作法に則った形であった様である。ミットフォードは日本の作法についてもよく調べており、滝の切腹の模様を生々しい筆致で書き残している。
[編集] 関連資料
『武士道』新渡戸稲造
- 上記ミットフォードの著作「旧日本の物語」より滝の切腹に関する記述を載せている。
[編集] 関連史蹟
- 三宮神社(神戸市)
- 「神戸事件地跡」碑と、滝が率いていたものと同型の大砲が境内に据えられている。
- 能福寺(神戸市)
- 切腹の場となった永福寺より移された「滝善三郎正信慰霊碑」がある。