新渡戸稲造
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新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、文久2年8月8日(1862年9月1日) - 1933年10月15日)は、農学者、教育者。国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著と言われている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。
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[編集] 概要
現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男として生まれる。
- 祖父の新渡戸傳(つとう。十次郎の父)は、幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の北部・三本木原(現在の青森県十和田市付近)の灌漑事業と森林伐採事業を成功させ、盛岡藩の財政を立ち直らせるきっかけとなる。稲造の父・十次郎もそれを補佐していた。新渡戸家は傳を始めとした英才を輩出していたが、稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)が藩の方針に反対して僻地へ流されており、祖父・傳は藩主への諌言癖から怒りを買い三本木へ配流され、父・十次郎も(諸説あるが)不祥事があったとして切腹を命じられているなど、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。祖父の傳は負けん気根性で上記の事業を成功させ、結果として藩主に「私が悪かった」と頭を下げさせる離れ業を成し遂げ、重臣に列挙された。東北人には珍しく熱い感情を表に出す家系だったと言われる。
札幌農学校(現在の北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・S・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。 祖父達同様かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチブ」(アクティブ=活動家、今で言うテロリストの意味合いもある)というあだ名を付けられた。
クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生がほぼ全員キリスト教に入信していた。二期生も入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメゾジスト系の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けた。この時にキリスト教に深い感銘を受け、キリスト教にのめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。
東京帝国大学進学後、「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。
その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンスを中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後ハレ大学より博士号を得て帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニアで転地療養。この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。
その後、第一高等学校校長、東京殖民貿易学校長、東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。1920年の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長に選ばれた。事務次長としてバルト海のオーランド諸島帰属問題などに尽力した。
敬虔なキリスト教徒(クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄、藤井武、塚本虎二などの著名な教育者、聖書学者が輩出した。
エスペランティストとしても知られ、1921年には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対に合い結局実現しなかった。
晩年は、日本が国際連盟を脱退し軍国思想が高まる中「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼の激しい反発を買い、多くの友人や弟子たちも去る。一方、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。
[編集] 経歴
- 1862年 盛岡藩(現在の岩手県盛岡市)の奥御勘定奉行の三男として生まれる。
- 1873年 東京外国語学校英語科(のちの大学予備門)に入学。
- 1877年 札幌農学校に第二期生として入学。
- 1882年 農商務省御用掛となり、11月札幌農学校予科教授。
- 1884年 渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
- 1887年 独ボン大学で農政、農業経済学を研究。
- 1889年 ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。
- 1891年 米国人メリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚。帰国し、札幌農学校教授となる。
- 1894年 札幌に遠友夜学校を設立。
- 1897年 札幌農学校を退官し、群馬県で静養中『農業本論』を出版。
- 1900年 英文『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)初版出版。
ヨーロッパ視察。パリ万国博覧会の審査員を務める。
- 1901年 台湾総督府民政部殖産局長就任。
- 1903年 京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。
- 1906年 第一高等学校長に就任。東京帝国大学農学部教授兼任。
- 1916年 東京貿易殖民学校長に就任。
- 1917年 拓殖大学学監に就任
- 1918年 東京女子大学学長に就任。
- 1920年 国際連盟事務次長に就任。
- 1921年 チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加。
- 1926年 国際連盟事務次長を退任。貴族院議員に。
- 1933年 カナダ・バンフにて開催の第5回太平洋会議に出席。ビクトリア市にて客死。
[編集] 代表的な著書
- Bushido: The Soul of Japan(1900年), The Leeds and Biddle Company
- 矢内原忠雄訳『武士道』(1938年)岩波文庫 ISBN 4003311817
- 奈良本辰也訳『武士道』(1997年)三笠書房 ISBN 4837917003
- 『農業本論』(1898年)裳萃房
※その他、様々な出版社から発行されている。
[編集] 逸話
- 名著と称される『武士道』だが、新渡戸はこの本を、米国滞在中、トランプで遊びながら口述したという。
- ジャンヌ・ダルクを尊敬し、小像を身近に置いていた。
- 野球を「盗塁をはじめ、他者をだますことで勝利を得ようとする卑劣な競技である」として、激しく嫌悪した。(野球害毒論の項目を参照)
- 首を右に傾ける癖があり、先代の五千円札に使われた写真でも実際には右に傾いているが、真っ直ぐに修正された。
- 幼少の頃、家に来た客に対して「用が終わったらさっさとお帰り」といったと言われている
[編集] 関連項目
[編集] 余談
[編集] 外部リンク
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