灌漑
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灌漑(かんがい)とは農地に外部から人工的に水を供給すること。
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[編集] 概要
技術的には、作物・土壌・水の間に適切で有機的な関係を保証する農学的側面、各種の施設・機器を用いて耕地に水を供給し管理する狭義の灌漑技術、水源から水を引く土木工学的側面などがある。農地に対する水管理という点で排水(農地排水)とセットで灌漑排水として扱われることが多い。
また大きなくくりとして畑に水を供給する畑地灌漑と水田に水を供給する水田灌漑に分けられる。また、耕地内で作物に給水することや圃場内で植物に給水することは灌水もしくは水遣りという。
この灌漑が社会発展に果たす役割は非常に大きい。灌漑により、農地の生産性は著しく高まるために、余剰生産物が発生する。余剰生産物は、農業以外で価値を生み出す職業を支え、商工業者や軍隊、王権貴族の生活を支える。このように、灌漑による生産性向上は社会に変革をもたらす。
その反面、乾燥地での不適切な方法による灌漑は、土壌の塩類集積などをもたらし、農地を荒廃させる。これはメソポタミア地方でしばしば文明の衰退をもたらしたし、アスワン・ハイ・ダムの建設によってエジプトでも深刻化しつつある。旧ソ連によるアラル海の水源であるアムダリヤ川(アム川)とシルダリヤ川(シル川)からの綿花栽培用の灌漑用水の強引な取水は、アラル海を著しく縮小させ、漁業を壊滅させた上、不毛の砂漠地帯を作り出してしまった。インドにおいても、灌漑技術の導入により劇的に農業生産物が増加する「緑の革命」がもたらされたが、近年になって地下から汲み上げられた塩類が、深刻な農業被害を引き起こしているという。
[編集] 灌漑の歴史
農耕の開始よって人口が増加し、国家が形成されるようになると、国家を統治する政権は自らの権威を示し、正当化するためにピラミッド(墳墓)や古墳などの大土木事業を行うようになる。しかし、次第に政権が安定してくると国家の繁栄を目指した公共事業が行われ始める。
国家を維持するための居住地と人口を支えるためには多くの食料と飲料水が必要になる。そのため、治水問題と灌漑問題の解決が重要になる。治水問題では洪水などによる水害を防ぐための築堤などの河川整備が、灌漑問題では水源確保のためのため池、堰堤やダムの建設と水源から目的地までの用水路の建設などの農地整備が相互に関連しながら行われてきた。
[編集] エジプト
古代エジプトにおいては麦類を中心とした畑作農業が行われており、紀元前3500年ごろに灌漑が始まっていたと考えられている。その灌漑はナイル川の氾濫を利用した畑作灌漑であった。青ナイルから流れ込む春季の多量の雨水によってナイル川下流では夏季にはゆっくりと水位が増水し、氾濫を起こす。この氾濫は日本で見られるような濁流で家々を押し流すような氾濫ではなく、ゆっくりと次第にナイルの水が堤防を超え外部に漏れ出るような様子の氾濫である。
この氾濫を耕地に誘導することによって耕地の土壌中に十分な水分が保水されるという湛水灌漑であった。また、ナイルの氾濫水は上流の肥沃な土壌を含んだ泥水で、氾濫によって肥沃な表土が供給された。このため、湛水することによって十分な水が供給されることと流水によって肥沃な表土が運搬されてくることが定期的にあったため乾燥地にもかかわらず塩類集積が起こりにくかったと考えられている。
[編集] メソポタミア
新石器時代以降メソポタミアの山麓の傾斜地で天水依存の農業(天水農業)が行なわれていたとされる。しかし、紀元前3000年ごろ、気候の変化によって水源を求めてチグリス・ユーフラテス河の下流平地部へと移住した。しかし、下流の平地部は春の雪解けに起因する洪水の氾濫に見舞われる氾濫源であった。
そのため、溢流を制御し、溢流した河川水を蓄えるため池を作り、各耕地に配分する用水路を作る公共事業を行なうことが都市国家の宿命であった。ただし、この水は飲料水等の生活用水にも使用された。
この地域は降水量は少ないものの温暖なため、用水が確保されれば驚くべき収量を上げることが出来た。
この灌漑も氾濫水を使用する灌漑であるが、貯水池(ため池)を作り水路で配分する点がエジプトと異なる。そして、ため池や用水路などの農業生産基盤は農地と共にしばしば収奪の対象とされ、騒乱のたびに灌漑排水システムは荒廃、そして再建された。その管理の不安定さが耕地の塩類集積を招き、生産力が低下し、文明が衰退して行った。
[編集] ヨーロッパ
ヨーロッパの気候は降水量が少なく、畑作には灌漑が不可欠であった。メソポタミア地方から農業が伝播したが、それは灌漑を必要とし、著しく水源等の地理的条件に左右された。しかし、ヨーロッパでは灌漑を駆使して農業生産力を上げるのではない別の方法をとることになる。
それはローマ時代にローマ帝国領内で起こった、耕地を二つに分け半分を耕作、半分を休閑地とする二圃式農業によるドライ・ファーミングであった。休閑地は一年かけて降水を土壌中に保水し、翌年の耕作に使用するというものだった。これによって、灌漑農業よりは単位当りの収量は低下するものの場所的制約から解き放たれ、耕地面積が飛躍的に増加し、農業生産力は大きく向上した。
[編集] 中国
中国は黄河・揚子江などの大河が多いものの、内陸部は乾燥地帯が広がり、大河川は氾濫が頻発するなど問題を抱えていた。隋の大運河建設以後、治水・灌漑・水運を一体化して考える水学(すいがく)が発達した。特に北宋以後は増大する人口と食料生産・輸送の観点からさまざまな灌漑・治水方策が提案された。
[編集] 日本
日本の灌漑は稲作(水田)の伝播とともに拡大し、大和時代の頃にはため池や配水路など計画的な用水施設の設置が行われている。新田の開発と灌漑施設の設置は表裏一体であり、農業土木技術が進歩するにつれて灌漑施設も大規模なものへ変遷した。江戸時代には見沼代用水などを始め、各地で長距離の農業用水路が開発されている。第二次世界大戦後には、治水などとの目的にも合わせた多目的ダムの建設も進み、全農地の2/3が公共事業により建設された農業用水の恩恵を受ける状況となっている。
[編集] 米国
センターピボットなどの大型灌漑により、世界の穀物倉となった。
[編集] 灌漑施設の遺跡(一部)
[編集] 灌漑方式
灌漑はその目的、水源、方法による分類がある。ここに示すのは方法による分類である。
- 畑地灌漑
- スプリンクラ灌漑
- 多孔管灌漑
- 点滴灌漑
- 地表灌漑
- 地下灌漑
- 肥培灌漑
- 水田灌漑
- 湛水灌漑
- 間断灌漑
- 田越し灌漑
- 掛け流し灌漑
[編集] 関連項目
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