牧田吉明
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牧田 吉明(まきた よしあき、1947年3月7日 - )は、静岡市生まれ東京育ちの民族主義者。かつて「爆弾屋」の通称を持つアナーキスト、新左翼活動家として知られた。
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[編集] 経歴
のち三菱重工業社長として采配をふるい"牧田天皇"と呼ばれた牧田与一郎の末子(四男)。1950年、東京都新宿区諏訪町(現在の高田馬場)の社宅に移り住み、1959年まで住み続ける。少年時代は昆虫好きの理科少年だった。のち家族と共に世田谷区下馬を経て港区高輪へ転居。
1959年4月、新宿区立戸塚第二小学校を経て、三菱財閥系列の成蹊中学校に入学。テニス部と生物部を経て登山部に入部。成蹊高等学校で反抗的な態度を続けたため、成蹊高校卒業生中ただひとり成蹊大学への推薦を拒否され、一般入試で成蹊大学政治経済学部と文学部に合格し、文学部文化学科に進む。
しかし成蹊大自治会の執行委員として、文学部長金子武蔵と衝突。1965年の暮には国鉄運賃値上げ反対集会で機動隊員に暴行し、初めて逮捕される。家裁送致を経て2泊3日で釈放。風月堂、どん底、ジャズビレに入り浸り、中上健次と交際。1966年、成蹊高校で2級下だった演劇部の娘に失恋、大学に退学届けを送りつけて四国に遍路の旅をするも、退学届けは不受理になり、その代わりに無届ビラ、立て看、集会、デモ、教師への暴言や唾棄といった学則違反ゆえに無期停学処分を受ける(1966年3月)。このため処分撤回を要求して大学側と闘争、挑発的なビラを撒いて金子一派を罵倒し、1967年5月に除籍処分を受けた。17日間のハンストを敢行し、週刊誌の取材を受ける。
同じ頃、アナーキスト組織背叛社に参加し、ヒッピー的生活を送る。1968年には、新宿駅西口広場にて「爆弾」と大書した張り子を背中に担ぎ、裸でハプニングをしていたこともある。フーテンの集会を企画し、カンパを募っておきながら当日雲隠れして騒ぎになったのもこの頃のことである。
1968年10月6日、背叛社火薬暴発事件が発生。友人が指名手配されたため、牧田も東京を後にして約1年間を関西で放浪。同じ頃、連続射殺魔事件の重要容疑者として捜査一課殺人係の訪問を受けるも、真犯人永山則夫の逮捕により容疑晴れる。
1969年には京都の立命館大学に乗り込んで民青と闘争を展開。ブントや中核派や全共闘の裏切りに遭って民青から反撃され、リンチを受けた挙句に逮捕されたが、べ平連を装って釈放された。翌日帰郷し、慈恵医大病院に20日間入院。
同じ頃、父に贈られた絵画を売った金で爆弾を作り、共産主義者同盟の一派「戦旗派」に提供。この爆弾で新宿ピース缶爆弾事件が引き起こされた。この事件を含む一連の爆弾テロ事件の容疑者として、1973年3月、極左活動家の増淵利行ら18人が逮捕された。検察は増淵らを起訴したが、公判継続中の1982年5月、牧田みずから自分こそが真犯人と名乗り出たため大騒ぎになった。
牧田の証言は真犯人しか知り得ない情報を含んでおり、信憑性は疑うべくもなかったため、1985年に増淵らは全面無罪となった。一方で、牧田の行為については既に公訴時効が成立していたため、検察は牧田を逮捕起訴することが叶わず、前代未聞の大失態となった。
1980年代以降は新右翼に接近。野村秋介との交友も知られており、阿部勉や牛嶋徳太朗とも交流があった。長野県のペンションで住み込みの管理人を務めた後、車上生活を経て大本教に入信し、京都に移住したこともある。
なお、三兄牧田安夫の妻紀美は調所一郎(日本国有鉄道理事中部支社長、鉄道弘済会理事、男爵)の次女で、調所広郷の玄孫。
[編集] 著書
- 『我が闘争 スニーカーミドルの爆裂弾』(1984, 山猫書林 私家版)
- 野村秋介, 内藤国夫との共著『時代に反逆する』(1988, 河出書房新社)
[編集] 関連書籍
[編集] 映画出演作
- 『煉獄エロイカ』(1970, 監督:吉田喜重, 現代映画=日本ATG)