共産主義者同盟
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- オリジナルの共産主義者同盟 (Communist League) は、カール・マルクスの思想に影響を受けた社会主義者たちがロンドンで結成し、1847年から1850年まで存在した国際組織。このときに、マルクスが同盟の綱領的文書として起草したのが有名な共産党宣言である。フリートリッヒ・エンゲルスも代表として参加している。共産主義政党の源流視されることがあり、2.や3.の党名の由来ともなっている。参照:英語版記事
- 日本の新左翼党派。本項で詳述。
- ユーゴスラビア共産主義者同盟は、かつての旧ユーゴスラビアの支配政党。
- ほか、各国に同名の政党がある。参照:英語版の曖昧さ回避ページ
共産主義者同盟(きょうさんしゅぎしゃどうめい)とは、日本の新左翼党派。日本共産党の武装闘争放棄に反対する学生党員が結成した学生組織=社会主義学生同盟(社学同)を前身としている。1960年代後半の全国的な学園闘争や70年安保闘争をめぐる状況においては、新左翼を領導する党派となる。しかし1970年以降、学生運動が下火になると四分五裂し弱体化した。略称共産同、ブント(ブント (Bund) とは、「同盟」の意味のドイツ語)。
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[編集] 共産主義者同盟(ブント)創設
1955年、日本共産党は1950年以来、コミンテルンによる批判への対応を巡って分裂していた主流派(所感派)と反主流派(国際派)が統合した。その際、国会議席を失うなど党勢の後退をもたらした武装路線を放棄した。武装闘争放棄は党内部の批判、とりわけ学生党員の憤激を買ったが、党指導部は、党の指導に反発する学生党員を容赦なく「トロツキスト」「敵の挑発者」のレッテルを貼り、党から排除していった。排除された学生党員は、武装を含む実力闘争継続を確認し、共産主義者同盟、略称ブント (Bund) を1958年に結成した。初期の指導部は、香山健一、森田実らであったが、やがてより若い島成郎、姫岡玲冶(青木昌彦)らのグループに移っていった。
[編集] 60年安保闘争
戦争の記憶も覚めやらぬ1959年、岸信介内閣は、日米安全保障条約の永続化を打ち出した。国民は再び戦争に巻き込まれることを恐れたが、支持者が離れることを恐れ、突出した闘争が出来ない日本社会党や日本共産党など既成左翼に失望していた。しかし、共産主義者同盟(ブント)に結集した全日本学生自治会総連合(略称「全学連」、唐牛健太郎委員長)の学生は、国会突入を図り、死者を出すほどの激しい闘争を繰り広げるなど、安保に対する国民の強い反発を代弁する行動を取った。このため、全学連のデモには普段政治とは無縁なサラリーマン・主婦・高校生も結集した。この運動の高揚には、戦後日本に強く介在した反米意識やナショナルな感情も大きく影響していた。安保条約は、アメリカへの従属化を意味し、政府、自民党、さらには右翼まで、安保条約を肯定する立場は、アメリカあるいは米帝国主義の手先とされ、ブントの反安保闘争は、無意識的なナショナリズムを代行する要素があったともいえる。当時、彼らの運動を支援した知識人の中には、清水幾太郎、吉本隆明、埴谷雄高、谷川雁などがいた。また若い活動家の中には、西部邁、柄谷行人などもいた。
[編集] 闘争敗北と第一次分裂
岸信介内閣は、日米安全保障条約を自然発効させ、総辞職した。デモに参加した市民たちも、生活の場に戻って行った。安保条約を阻止できなかったのは、敗北であった。 闘争の総括をめぐり、共産主義者同盟はプロレタリア通信派、革命の通達派、戦旗派などに四分五裂し(共産同第一次分裂)、戦旗派やかつての指導部の何名かは革命的共産主義者同盟に吸収されていく。全国社会科学研究会(全国社研)を名乗るグループは、革命的議会主義を標榜し、マルクス主義労働者同盟、そうして社会主義労働者党に姿を変えていった。
[編集] 全国学園闘争と70年安保闘争
60年代後半の激しい政治活動は、1967年の羽田闘争から始まる。この時登場した三派全学連は、共産同(ブント)、中核派、解放派から構成されており、60年安保の影響で四散していたブント諸派の多く(ML派やマルクス主義労働者同盟などを除く)は、1965年から1966年に再び統合され、学生運動の主導権を握りつつあった(第二次ブント)。 60年安保の時もそうだが、戦後日本の学生運動の中心にあり、それを領導してきたのは共産主義者同盟(ブント)であった。ブントがそうした位置を占めることが出来たのは、活動の中枢に「運動志向」があったからで、それによりブントは、しばしば革共同、とりわけ革マル派から「ブランキスト」(ブランキ主義者)と批判された。運動志向の強いブントと比べるならば、革マル派は、「黒寛主義」と呼ばれる理論への志向が強く、逆にブントから「学習会サークル」と揶揄された。ついでにいえば、中核派は、運動志向の強いブントと、組織志向の強い革マル派の中間に位置している。 ブントは、運動形成への志向が強いため、よりイデオロギー的な革共同系(中核派、革マル派)よりも、全共闘として全国の学園闘争において登場していたノンセクト・ラジカルの運動との共鳴性が高く、ブントは強い影響力を示していく。しかしながら、70年を通り越すと学園紛争は一気に収束し、70年安保闘争も日米安全保障条約を無効化できないまま終了、学生運動全体が大衆的な盛り上がりを失っていった。
[編集] 第二次分裂と党派闘争
70年安保闘争の結果(敗北)は、新左翼運動の急速な後退化をもたらした。そのような状況の総括と展望をめぐって、ブントは再び四分五裂状態になる。この第二次ブント分裂で「赤軍派」「戦旗派」「叛旗派」「状況派」「蜂火派」など大小様々なセクトが誕生した。赤軍派が「赤軍」の形成を主張し、戦旗派は「共産主義突撃隊」の形成を主張するなど、過激な武装闘争路線を打ち出すセクトもあった。なお、同じ武装闘争路線でも赤軍派と戦旗派は軍事の主導権をめぐり党派闘争を開始する。また、軍事には反対していた叛旗派(ただし、三里塚第二次強制代執行においては武威をしめした)や情況派(のちに遠方派と遊撃派に分裂)が、赤軍派や戦旗派と対立した。叛旗派はブントの機関紙『戦旗』の編集局をおさえ、戦旗派に属したブントの議長をはじめとする最高幹部や中枢を、「ブントから除名する」という内容の『戦旗』特別号を発行した。ただちに戦旗派は、ブント中央の名前で、叛旗派を除名する。しかし、戦旗派では赤軍派との抗争、叛旗派への対応をめぐり戦旗派の中にも内部闘争が起こり、70年12月18日に事務局を掌握した「戦旗・共産同」(戦旗日向派)と、ブント議長の仏徳二(さらぎ・とくじ)率いる「鉄の戦線派」(南部地区委員会)に分裂した。鉄の戦線派はさらに、同じく第二次ブント分裂の際誕生した神奈川県左派、関西地方委員会と合同してもう一つの戦旗派(蜂起派、連合戦旗派 通称12・18ブント)を結成し、戦旗日向派と対立する。その後も、各派は更なる分裂を繰り返し、最終的には共産同系のセクトは17、8派にまで細分化してしまった。その後もたびたびブント諸派を統一しようという「大ブント構想」が持ち上がるが、実現しないまま現在に至っている。
[編集] 軍事路線
ブントの余波として、ある意味で"最後の輝き"を示したのがブント赤軍派であろう。赤軍派はクーデター的な武装蜂起による一時的な政権掌握を志向した。しかし、山梨県大菩薩峠で軍事訓練をしているところを警察に発見され、実質的な決起戦闘部隊が壊滅した。起死回生を図った赤軍派はメンバーの一部でよど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に渡った。さらに別の一部メンバーはアラブの地へ赴き日本赤軍を結成した。最後まで日本に残った赤軍派のメンバーは京浜安保闘争と統合して連合赤軍を結成。「山岳ベース事件」「浅間山荘事件」を起こした。
[編集] その後
1980年代、社会主義労働者党(社労党)は4時間労働制実現を掲げて各種選挙に挑戦したが、議席獲得には至らず、党勢は停滞。2002年に「マルクス主義同志会」に改称して現在に至る。共産同ML派(第一次ブント分裂の際誕生)の系譜を引くマルクス主義青年同盟は民主統一同盟に改称し、日本共産党に接近するも失敗。現在は「がんばろう!日本!! 国民協議会」と名乗り、右翼に転向した。戦旗・共産同(戦旗日向派)は1973年、地下軍事組織が爆弾闘争を行い(黒ヘルグループが冤罪で逮捕された) 、その総括をめぐって、荒派(戦旗・共産同、党建設重視)と西田派(共産同戦旗派、武装闘争重視)に分裂した。荒派は1997年、名称をブント(BUND) に変更し、エコロジスト系市民団体に脱皮、若手の獲得にも成功した。一方、西田派は共産同全国委員会(烽火派)と合併し「共産主義者同盟(統一委員会)」となった。 第二次ブント分裂時に派生した幾つかのセクトが統合して誕生した赫旗派はさらに親中共派系の日本共産党 (マルクス・レーニン主義)と統合し労働者共産党を結成、さらなる他セクトとの統合を目指している。
[編集] かつての拠点校
- 埼玉大学 社学同の最大拠点だった。
[編集] 関連事項
[編集] 共産同系諸派(現存)
- マルクス主義同志会
- 民主統一同盟
- 労働者共産党
- ブント (市民団体)
- 共産主義者同盟(統一委員会)
- 共産主義者同盟プロレタリア派
- 共産主義者同盟(火花)