物言い
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物言い(ものいい)とは、大相撲において、行司が下した判定(軍配)に対し、勝負審判や控え力士が異議を唱えること。
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[編集] 概説
対戦(取り組み)後の行司軍配に異議のある(ほとんどは、両者の体勢が微妙な状態での決着など)場合、勝負審判は、即座に手を挙げることによって意思表示をする。その後5人の審判委員が土俵上で協議を行う。この際、ビデオ室と連絡を取り、ビデオ映像も参考にする。協議が合意に達すると、行司の下した判定の如何を問わず、改めて勝負の結果が発表される。
多くの場合は、体が落ちる、あるいは土俵を割るのが同時(同体)として、勝敗の決定をせず、取り直し(再試合)となるか、そのまま行司軍配通りの結果となるが、稀に行司の軍配と逆の結果となる場合もあり、このケースは行司差し違えという。
また、土俵下の控え力士も物言いをつけることができる(元大関・貴ノ浪が物言いを付けたことがある)が、協議に参加することは出来ない。なお、行司は取組の状況を述べる以外は協議に参加できない。
アマチュア相撲においては「異議申し立て」という。控え力士に物言いの権利のないことや、(大会にもよるが)ビデオ判定は用いられないことなどをのぞいて、形態は大相撲とほぼ同じである。
[編集] ビデオ判定
大相撲にビデオ判定が導入されるきっかけとなったのは、1969年3月10日の三月場所2日目、横綱・大鵬と前頭筆頭・戸田の一番だった。土俵際に追いつめられ回り込む大鵬を追ううちに戸田の右足が俵を踏み越え、ほぼ時を同じくして大鵬の体が土俵を割った。軍配は大鵬にあがったが、審判より物言いがあり協議をした結果、大鵬が土俵を割るのが先という結論になり、行司差し違えで戸田の勝ちとなった。しかし、この時の中継映像では戸田の足が先に出たように見えた。大鵬がここまで45連勝していたこともあり、この一番の判定は「世紀の大誤審」と騒がれた。
これを受けて、日本相撲協会は目視による判定を補う方法について検討し、次の五月場所よりビデオ判定を導入することになった。
問題点として、実際にビデオ室で再生映像を確認する者と、協議を行う審判員が別であるため、どちらが先に土がついたかだけが重視され、相撲の流れや生き体、死に体の区別などがないがしろにされがちなことがあげられる。また、明らかな誤審であっても物言いがつかなければ、ビデオが参考にされることはなく、ビデオ室係が行司の軍配に疑問を持っても、物言いをつける権限はない。
勝負審判の判定が物議をかもした例として2004年名古屋場所中日の朝青龍-琴ノ若戦の所謂死に体問題や、貴乃花を引退させたくない協会の思惑がにじみ出たといわれる2003年初場所の貴乃花-雅山戦の同体判定や、明らかに小錦の方が先に落ちているのにも拘らず小錦の投げ有利、若花田の死に体と見て若花田の負けにされ、物言いがつかなかった1993年夏場所千秋楽の一番等がある。
[編集] エピソード
- 1938年1月場所9日目、双葉山-両国戦。48連勝中の双葉山が寄り切った相撲に、控え力士の玉錦、男女ノ川から双葉に勇み足ありと物言いがつき揉めに揉めた。双葉山の69連勝が48で止まっていたかもしれない歴史的物言いと語り継がれる。結果は、取り直しの末双葉が吊り出しで49連勝。
- 1958年9月場所初日、北の洋-栃錦の物言いで行司の19代式守伊之助が土俵を叩いて自分の軍配の正当性を主張した。いわゆる「ヒゲの伊之助涙の抗議」である。
- 2003年3月16日3月場所8日目、マイクが故障し機転を利かせた二子山審判長(元大関貴ノ花)が場内放送席まで行って場内説明した。
- 2004年1月24日1月場所14日目、琴龍-武雄山の取組に物言いがつき、九重審判長(元横綱千代の富士)が場内説明する際、武雄山の名を忘れ「えーと何だっけ」と発言した。なお彼の場合、「取り直し」の発表の際にいきなり「もう一丁!」とだけ言うなど、いくつかのエピソードを持っている。
- 講談などでは、寛政時代雷電と小野川の取組で、雷電の寄りを土俵際こらえた小野川が必死に残すも軍配は雷電、しかし小野川を抱える久留米藩の藩士が小野川がうっちゃったであろうと刀に手をかけ、土俵に駆け上って物言い、行司はいさいかまわず凛然と「雷電ン~!」と勝ち名乗りをあげ、観客の喝采を得る――という話がある。これ自体はまったくの創作だが、こうした強引な物言いは当時けして少なくなく、江戸の庶民も腹にすえかねていたことがわかる。