田代祐一
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田代 祐一(たしろ ゆういち、1959年2月3日 - )は、日本のオートレース選手。千葉県出身。15期、伊勢崎オートレース場所属。
[編集] 略歴
- 1977年
- 1983年
- 1984年
- 1985年
- この年、自身初の伊勢崎A1(前・後期)となる。
- 1987年
- 1988年
- この年の伊勢崎A1(前・後期)。
- 3月15日、第1回全日本選抜オートレース(飯塚オートレース場)で特別競走(現在のSG)初制覇。当時の競走車呼名は「ナンバーワン」。競走タイムは3.406。
- 11月3日、第20回日本選手権オートレース(飯塚)優勝。競走タイムは3.424。
- 11月10日、九州スポーツ杯争奪第21回山陽王座決定戦(山陽)優勝。競走タイムは3.41。
- 12月8日、第13回ウィンターカップ争奪戦(船橋オートレース場)優勝。競走タイムは3.38。
- 11月26日~11月28日の伊勢崎オートレース場一般開催、12月4日~12月8日の第13回ウィンターカップ争奪戦、そして12月10日~12月13日の伊勢崎一般開催にて飯塚将光(9期、船橋オートレース場所属)、篠崎実(9期、川口オートレース場所属)、和久田正勝(10期、引退)に次ぎ4人目となる10連勝記録を樹立。
- この年の賞金王となる。
- 同年のオートレース表彰選手において、最優秀選手賞・特別賞を受賞。また、日刊スポーツオートレース三賞の一つである殊勲賞と日本プロスポーツ会議功労賞も受賞。
- 1989年
- 同年の伊勢崎A1(前・後期)となる。
- 2月1日、第3回スーパースター王座決定戦(川口オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「ナンバーワン」。競走タイムは3.794。
- 2月21日、第11回はやて賞争奪戦優勝。競走タイムは3.63。
- 1990年
- 1991年
- 同年の後期伊勢崎A1となる。
- 2月5日、第23回山陽王座決定戦優勝。競走タイムは3.400。
- 1993年
- 8月10日、第16回稲妻賞争奪戦優勝。競走タイムは3.612。
- 同年の後期伊勢崎A1となる。以後、1997年前期まで伊勢崎A1に。
- 同年のオートレース表彰選手にて優秀選手賞を受賞。以降、1997年まで優秀選手賞を連続受賞。
- 1994年
- 1995年
- 1996年
- 1997年
- 2002年
- オーバル・マスターズチャンピオンシップ(伊勢崎)優勝。
- 6月17日、飯塚将光、小林啓二、島田信廣、篠崎実、鈴木辰巳に次いで6人目となる通算100Vを達成。
[編集] 『漢・田代祐一』
田代祐一は1980年代半ばから一躍全国区に躍り出た選手である。1977年、父(-田代禮三。元船橋オートレース場所属。期前、引退)の後を追ってデビュー。当初は川口に配属されたが、まもなく伊勢崎へ転属となる。1982年の第14回日本選手権オートレース(飯塚オートレース場)にフジの単気筒で特別初出場を果たしたものの、その時は初日の試走時に落車してしまった。翌1983年の第15回日本選手権オートレース(浜松オートレース場)にはトライアンフに乗り換えて出場。当時は準決勝戦は第9、第10、第11レースの3個レースしか行われておらず、優勝戦へ勝ち上がれるのは、準決勝での1、2着の選手と、3着の選手のうち競走タイム上位の二名であった。この準決勝戦で3着となった田代は、同じく準決勝戦で3着だった飯塚将光とのタイム差、それもコンマ数秒の差で敗れ、優勝戦への進出を逃した。
その後、記念レースをいくつも制覇した田代だったが、特別レース=日本選手権はなお高い壁として存在していた。しかし、1988年3月15日、新設された特別競走の全日本選抜オートレースで優勝を飾り、流れを掴んだ。当人曰く、『乗り手としては1982年、83年の頃の方が上だったと思う』との事だが、『この優勝でツキが変わった』とも言っている。そして、1988年11月3日、飯塚オートレース場で開催された第20回日本選手権オートレース、歴代の優勝戦史上でもトップクラスの死闘の果てに、田代は念願の選手権初制覇を成し遂げたのである。この開催では飯塚将光の選手権3連覇がかかっていた。そしてもう一つ、浜松のエースであった鈴木辰巳が新開発されて間もないニューフジ二気筒で参戦していた点でも注目が集まっていたが、彼らを相手に田代は見事勝利を収めた。1着の田代と2着の飯塚の競走タイムが同タイムであったことからも、このレースの熾烈さが伺える。
伊勢崎所属の選手が日本選手権を制覇したのはこれが初であった。かつて山元正次、土田一男(8期、引退)といったベテランがこのタイトルに挑み、後一歩のところで逃していた。それを手にした若きエースに、当時の伊勢崎ファンは熱狂した。伊勢崎オートレース場での場外発売でこの優勝戦を固唾を呑んで見守っていた伊勢崎のファンは、田代がゴールした時に歓喜の余り万歳三唱をして田代の偉業を讃えたと言われる。
田代の最大の持ち味は、なんと言ってもその果敢な攻めにある。第20回日本選手権の際には、直線での速力がニューフジに比べて劣っているトライアンフに乗っていたにもかかわらず、鈴木辰巳を直線で捌いた。その後、10周回1Cから2Cにかけて飯塚将光に捌かれたが、立ち上がりで差し返すなど、その強烈な捌きは見る者を魅了した。しかし、こうしたアグレッシブな攻めは常に成功するわけではなく、無論、反則・妨害も何度も犯してしまっている。第24回日本選手権では、最終周回の直線から1Cにかけて、先頭を走る島田信廣とそれを追う岩田行雄(15期、船橋オートレース場所属)の内に突っ込み二車刈りを敢行したが、途中でバランスを崩し岩田を押圧、結果失格となってしまった。そして、第13回オールスターオートレースでは終始先頭をひた走り1着でゴールしたものの、1周回1C~2Cでの反則妨害によって失格となってしまう。こうした走りには批判も勿論存在したが、それ以上に、その走りに魅了される者も多かった。中村政信(19期、故人)もそんな一人で、田代のことを『兄ィ』と慕っていた。
その後、スーパースター王座決定戦も制覇した田代は乗りに乗っていた。しかし、そんな田代に思いもよらぬ災難が降りかかる。一つは新エンジン『セア』の導入である。当初、田代はそれ以前のフジの頃の好調を維持していたかに見えた。しかし、その好調が仇となった。田代の最大の持ち味である強引な突っ込みがしにくいセアは田代向きではなかったのである。そして、セア乗り換え当初は不振が続いていた同期の岩田行雄が徐々に復調の兆しを見せていくのに対して、田代は徐々に不振に喘ぐこととなってしまった。
もう一つが、自分のことを『兄ィ』としたっていた中村政信の殉職である。彼の殉職以降、田代は目に見えて調子を崩していた。それまで、勝つためならどんなに危険な走りも厭わなかった田代が、走る事に恐怖を感じるようになってしまったのである。しかし、この恐怖は一時的なものに過ぎなかった。やがてその恐れを自ら拭い去った田代は、徐々に復調の兆しを見せていった。
現在、伊勢崎と飯塚の所属選手の一部は落車時に頚椎を保護する特殊なエアバッグを装備している。この開発にあたっては、田代の協力が大きかったとされる。当初から田代に依頼をしていたそうだが、田代自身は余り乗り気ではなかった。しかし、上述した中村政信の殉職がきっかけとなり、この開発に協力した。現在このエアバッグは徐々にではあるが選手間で広がりつつある。
ここ最近の田代は、同期の岩田などと比較すると不調と言わざるを得ない。しかし、今現在のトップクラスの選手に対して『勝ちたい』と思い、今なお自らを鍛えている。そんな田代は『闘将』と呼ばれ、今なおファンは多い。