皆川賢太郎
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皆川 賢太郎(みながわ けんたろう、1977年5月17日 - )は、日本のアルペンスキー選手。主に回転で活躍している。新潟県南魚沼郡湯沢町出身。チームアルビレックス新潟所属。父は元競輪選手。現在、スキーはアトミックを使用している。
1998年、長野オリンピック代表、2002年、ソルトレークシティオリンピック代表。2006年、トリノオリンピック代表。
2000年2月、ワールドカップ・スラローム、オーストリア・キッツビューエル大会で、ゼッケン60番から6位に入賞し、世界のトップスラローマーの仲間入りを果たした。同年3月、韓国・ヨンピョン大会でも6位に入賞している。
2001年、6位、8位、10位、10位と、立て続けに好成績を残し、第1シード入りを果たす。日本人としては4人目の第1シード選手となった。
2001年、11月に足首を捻挫、その怪我をおして出場したワールドカップ・回転、オーストリア・シュラドミング大会の2本目にベストタイムを獲得。日本人としては3人目のベストタイム獲得者となったものの、同じシーズンの翌2002年3月、長野県・野沢温泉の大会中に左膝前十字靭帯断裂の大怪我を負う。
以降、2年間は低迷していたものの、2005年スロベニア・クラニスカゴラ大会で7位に入り、再び上昇の兆しを見せていた。
2006年、第5戦スイス・ウェンゲン大会で自己最高の4位をマーク。オーストリア・シュラドミング大会でも6位に入り、輝きを取り戻した。
トリノオリンピック・男子スラロームでは1本目トップと0.07秒差の3位につけた。メダルを狙ってスタートした2本目、スタート直後にバックルが外れるというアクシデントがあったが、最後まで攻め続け、3位と0.03秒差の4位。メダルは逃したものの、7位の湯浅直樹とともに1956年コルティナダンペッツォオリンピックの猪谷千春以来50年ぶりの日本人選手の入賞となった。この4位入賞により第1シードに復帰した。
オリンピック後、初のワールドカップ・志賀高原大会で6位入賞。
2006年、11月12日、ワールドカップスラローム開幕戦で13位入賞。11月29日、アメリカで行なわれた北米カップで優勝した。 しかし、12月8日、オーストリアで練習中に右膝前十字靭帯を損傷し、2006-07シーズンの残りは治療に専念することになった。
[編集] スキーの革命児
皆川賢太郎は、身長173cmと、アルペンスキーの選手の中では小柄な選手である。身体の大きさがタイムに直結する現在のスラローム競技において、時代の流れを読み取る能力、そして彼独自の分析とアイデアで編み出した独創的なテクニックを武器にして世界に挑んでいる。
2000年、アルペンスキーの回転競技は、使用する用具(スキー板)の過渡期を迎えていた。前年まで、競技中に使用されるスキーの長さは、195cmから200cmだったのが、このシーズンから、各スキーメーカーが新兵器として180~185cmの短く太いスキー(のちに『ショートカービングスキー』と呼ばれる)を開発・投入してきたのだ。こうした新しい形状のスキーの狙いは、次の3点に集約される。
- 長さを短くすることで操作性を向上させる
- 幅広くすることで滑走時の安定性を向上させる
- サイドカーブの回転半径を小さくして回転性能を向上させる
その一方で、デメリットも大いにあったのが実際だった。それを列挙すると
- 長さが短くなることで、前後のバランスを取りにくく、バランスが悪くなる
- 雪面に接する面積が少なくなり、雪面への食い付きが弱くなる
- 雪面からの振動をもろに受けて、脚部や腰部に負担がかかる
というものだった。各選手はシーズン前に、どの程度の長さのスキーを選択するかについてテストを繰り返し、メリット、デメリットのバランスを考えて、ほとんどが185cm前後のスキーを選択してきた。もちろん、前年と同じ195cmのスキーを選んできた選手も多数存在した。
そんな中、皆川は、女子やジュニアの選手用としてテスト的に開発された168cmのスキーを選択した。これには誰もが驚いた。当時のスキーの世界では、「短いスキーは操作性は高いが、タイムは出ない」というのが通説であったからである。
さまざまなバランスを考えて開発されて最適とされたのが180cmや185cmという長さだったので、この長さを選択したのは、ギャンブル以外何ものでもないと思われた。
当時、皆川にスキーを供給していたサロモンは、男子の選手に168cmという長さのスキーは開発していなかった(サロモンは男子用には190cm、185cm、176cmを用意)。ちなみに、この168cmという長さは、当時、ワールドカップに出場していた選手(男子)の中で、もっとも短い長さだったのである。
実際、168cmのスキーを選択した皆川も、あまりのバランスの悪さに、練習での暴れ馬に乗るロデオのような滑りを繰り返していて、とても順応しているようには見えなかった。滑り自体もぎこちなくスムーズさに欠け、完成度の高い世界のトップレーサーと比べると、あまりにもお粗末な滑りに見えた。
こうして幕が開けた2000-01シーズン、各選手は自分の選んだスキーの長さが本当に正しかったのか、迷いながら戦いの舞台に立ってた。その開幕戦では、185cmを選択した選手(ディディエ・プラッシー:スイス)が勝利した。第2戦は176cm(フィン・クリスチャン・ヤーゲ:ノルウェー)、第3戦は185cm(ディディエ・プラッシー:スイス)と続き、やはり180~185cm前後のスキーが最適な長さのように思えた。
しかしこれも絶対とは言えない部分もあり、例えば2位や3位の選手のに目を向けると、195cmを選んだ選手に占められており、情勢は長いスキーが有利なようにも見られた。ただ、175cm前後の短いスキーを使う選手が、時折上位に顔を出すこともあって、不気味な雰囲気も見逃せなかった。
そんな混沌としたシーズンが続いていたときに、皆川は世界のトップシーンに飛び出したのだった。皆川は、短いスキーの持つポテンシャルに賭けて、そのスキーの性能を引き出すトレーニングをひたすら行っていたのだ。これまでのテクニックや固定観念は捨てた。そして、練習量という土台の上に立つ、自己の感覚と独自の理論によって独創的なテクニックを築き上げていたのである。
1月、オーストリア・キッツビューエル、伝統のハーネンカム大会最終日。ゼッケン60番という、最後尾近いスタート順から飛び出した皆川は、独特の膝と身体の動きを駆使しながら斜面を駆け抜け、合計タイムで6位となった。
当時のトップ選手は、皆川の滑りと成績に驚き・焦りを隠すことはできなかった。はっきり言って完成度は決して高いものではなかった。ただし、アクロバティックで荒削りながらも、最短の滑走ライン上を滑っていく皆川の滑りは、他の選手のものとは明らかに異質のものだった。この衝撃が、多くの選手・スキーメーカーに影響を与え、その後の回転競技を大きく変えたのはいうまでもない。
以降、回転競技で使用されるスキーは、「短小化」の一途をたどることになった。そしてテクニックに関しても、皆川のテクニックを、各国の選手が研究、真似するまでになるのだった。翌年には、各選手およびスキーメーカーは、さらに短いスキーを実戦に投入することなり、最終的にはスキーの長さのミニマム規制となる155cmまで短くなることになる(現在のミニマム規制は165cm以上)。
短いスキーの戦闘力を最初に証明した選手の一人となった皆川は、スラロームの歴史を変えた「スキーの革命児」として、さまざまなメディアで取り上げられることとなった。
ただし、この表現については、皆川本人はあまり気に入っていない。
[編集] 外部リンク
- 皆川賢太郎のはなし 旧公式ブログ。更新を終了している。
- 皆川賢太郎ブログ 現在の公式ブログ
- チームアルビレックス新潟