矢内原忠雄
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矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年1月27日 - 1961年12月25日)は、日本の経済学者。東京大学総長。
[編集] 略歴
現在の愛媛県今治市に医者の子として生まれる。教育熱心な父の影響で、神戸の従兄弟の家から兵庫県立神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)に通学して卒業。旧制第一高等学校に在学中、無教会主義者の内村鑑三が主催していた聖書研究会に入門を許され、キリスト教への信仰を深めていった。東大に入学後は、吉野作造の民本主義や、人道主義的な立場から植民政策学を講じていた新渡戸稲造の影響を受け、思想形成を行っていった。ちなみに、矢内原が卒業した神戸中学校の在校当時の校長鶴崎久米一は、札幌農学校で新渡戸稲造と同期の入学生である。
1917年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社し、別子銅山に配属される。当時の別子銅山には、後に住友を辞して無教会主義のキリスト教伝道者となる黒崎幸吉が先に赴任しており、黒崎の伝道集会で聖書講義を行ったりもした。1920年、新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として母校の経済学部に呼び戻され助教授となる。イギリス・ドイツへの留学を経て、1923年に教授に就任し、植民政策を講ずることとなった。
矢内原の植民政策学は、統治者の立場から統治政策として考えるのではなく、社会現象としての植民を科学的・実証的に分析し、帝国主義論の一環として扱っている点に特色がある。前任者の新渡戸の学風を発展的に継承しているものといえよう。その研究の結実の代表的なものが、各国語に翻訳された『帝国主義下の台湾』(1929年)である。このような矢内原の姿勢は、しだいに軍国主義的な風潮が強まる中で体制との緊張関係を深めていくこととなった。
1937年、盧溝橋事件の直後、『中央公論』誌に「国家の理想」と題する評論を寄せた。国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないこと、などの内容が抽象的一般的な形で述べられており、特に時局に対して具体的に批判を行うものではなかったが、この論文は大学の内外において矢内原排撃の格好の材料として槍玉に挙げられた。同じ頃、矢内原が個人的に発行していたキリスト教個人雑誌『通信』に掲載された彼の講演の中の一言、「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」が、不穏の言動として問題となった。結局1937年12月に、事実上追放される形で教授辞任を余儀なくされた。辞職後は『通信』に代わって『嘉信』を発行し、また自宅に土曜学校を開いてキリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続けた。
敗戦後の1945年11月、東大経済学部に復帰。その後社会科学研究所長、経済学部長、教養学部長を歴任し、1951年、南原繁の後任として東京大学総長に選出される(1957年まで2期6年務めた)。1952年には、学生劇団「ポポロ」公演にて摘発された私服警官のメモから警察による系統的な学内スパイ活動が露見し、東大側と警察が全面対立したが(東大ポポロ事件)、矢内原は総長として大学の自治と学問の自由を守るために毅然とした態度を取った。一方、学生のストライキに対しては厳しい態度を取り、ストライキを計画指揮した学生は原則として退学処分とする「矢内原三原則」を打ち出した。この「矢内原三原則」は東大紛争で廃止に至るまで、学生と大学当局の間でしばしば対立の原因となった。
退任後の1958年に名誉教授の称号を授与され、その後も精力的に講演活動を行う。1961年、胃ガンのため逝去。享年68。なお、法大名誉教授で著名な詩人故矢内原伊作、慶大経済学部名誉教授・作新学院大学長の故矢内原勝は子息である。
[編集] 著作
- 『矢内原忠雄全集』全29巻(岩波書店、1963-64年)
- 『帝国主義下の台湾』(岩波書店、1929年、1988年復刊)
- 『イエス伝―マルコ伝による』(角川書店)、1999年8月、ISBN-10: 4043491018(1968年の、同著者による同名著作(角川書店)、ISBN-10: 4047030090、の改訂新版である。)
- 他に新渡戸稲造著『武士道』(岩波文庫)、ジョン・アトキンソン・ホブソン著『帝国主義論』(岩波文庫)の翻訳がある。
[編集] 伝記
- 矢内原伊作 『矢内原忠雄伝』 みすず書房、1998年 ISBN 4622032007
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