東大紛争
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東大紛争(とうだいふんそう)または東大闘争(とうだいとうそう)は、1968年に発生した学生運動の一環として発生した暴動で、東京大学の学生が起こし、東大の全共闘を中心に学生の約半数がこの運動に参加した。
[編集] 年表
- 1968年(昭和43年)
- 1月29日 東大医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入。
- 3月12日 医学部は、1月19日の医局長缶詰事件で17人の処分を発表。
- 3月26日 処分された学生のうち1人につき、東大側の誤認の可能性があると教授懇談会で医学部講師2名が報告。
- 3月28日 医学部全闘委の学生が安田講堂での卒業式実力阻止を図った為、大学側は卒業式を中止。
- 6月15日 医学部全闘委の学生が安田講堂を占拠。
- 6月17日 大河内総長の要請で、警察機動隊1200人が同大学構内に出動し、学生らは退去。
- 6月20日 警官導入に抗議して、法学部を除く9学部が一斉に一日スト。1960年の安保闘争時以来初。
- 6月26日 東大文学部無期限ストに突入。
- 6月28日 大河内一男総長出席の安田講堂での「総長会見」。約3000人参加し、溢れた2000人もの学生はテレビ中継した別の教室集会に参加という形式を採った。
- 7月2日 反日共(反共産党)の新左翼系の学生ら、250人が安田講堂をバリケードで封鎖。
- 7月5日 東大闘争全学共闘会議(東大全共闘)結成(全共闘議長・山本義隆)。教養学部も無期限ストに突入。
- 7月24日 東大助手共闘会議結成。
- 8月10日 『8・10告示』といわれる大学側最終案が出されるが、一方的な告示という形式で成された事に反発を買う。
- 8月28日 全学共闘会議の学生約200人が医学部本館を占拠。
- 9月9日 医学部卒業試験が極秘で行われ、受験対象者の内過半数に満たない45名のみが受験。残り60名はボイコット。
- 9月16日 本郷構内の5学部で学生大会、学部大会を開く。医学部の学部集会には教官、学生約1300人が参加。9月9日の試験は延期と提唱し、その試験を受験した45名はショックを受ける。
- 9月18日 医学部緊急教授会で、卒業試験を一時延期、当分休講を発表。
- 9月22日 全共闘の学生約250人が医学部付属病院外科系医局・研究棟にバリケードを築き、封鎖する。
- 10月12日 法学部無期限スト突入。開校以来初の10学部「無期限スト」
- 10月18日 東大医学部神経内科の医局員15人全員が教授会に抗議し、25日以降スト終了まで一切の診察を有給者のみで行うと決議。無給医診療拒否。
- 11月1日 東大評議会で大河内一男総長の辞任を承認。紛争の発端となった医学部の豊川行平前医学部長、上田英雄前東大病院院長の東大教授退官を承認。10学部の当時の学部長全員も辞任。
- 11月4日 新学部長会議で加藤一郎法学部長を学長事務取扱(代行)に選出。文学部の法文2号館で文学部学生の処分を巡る「大衆団交」が始る。
- 11月6日 林文学部長、岩崎、堀米両評議員の3人は禁足。成瀬助教授は疲労で退場。教授側は「不法監禁」と掲示。
- 11月8日 100時間を超え、教官有志は「基本的人権の重大な侵害。大学を無法地帯とする愚挙。」と声明を発表。35名が署名。三島由紀夫、阿川弘之ら学者・文化人グループは「緊急の訴え」を出す。
- 11月12日 林文学部長はドクター・ストップの為、173時間ぶりに解放。緊急入院をする。
- 11月14日 法学生大会、全学封鎖反対決議。
- 11月18日 全学集会で東大当局と全共闘との予備折衝物別れとなる。
- 11月19日 工学生大会、全学バリ封鎖反対可決。総長代行らと統一代表団準備会(日共系)との予備折衝。
- 11月22日 東大闘争の天王山、全学バリケード封鎖の強行の挫折。図書館封鎖。学生側は自主管理で駒場祭開催。
- 12月29日 文部省(当時)が、1969年度の東大入試中止を発表する。
- 1969年(昭和44年)
[編集] 関連項目
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