福井城
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御本城橋 | |
通称 |
北ノ庄城 |
城郭構造 |
輪郭式平城 |
天守構造 |
4重5階(江戸期・非現存) |
築城主 |
柴田勝家 |
築城年 |
1575年 |
主な改修者 |
結城秀康 |
主な城主 |
柴田勝家、越前松平家 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
石垣、土塁、堀 |
位置 |
福井城(ふくいじょう)は、福井県福井市に一部が現存する城である。形式は平城。本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされる。江戸時代には福井藩主越前松平家の居城、城下町として栄える。なお福井城が築城される以前に同地に存在した北ノ庄城についても合わせて記す。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] (旧々)北ノ庄城
織田信長配下の軍勢によって朝倉氏が滅亡した後、明智光秀が北ノ庄城に入城し戦後処理にあたったと記録されるが、当時この地に城が存在したかは判然としない。存在したとしても、簡易な前線基地か砦程度の物であったと推定されている。
[編集] (旧)北ノ庄城
朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正3年(1575年)に自らの縄張りによってを築城を開始する。同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻お市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが灰燼に帰することになる。とはいえ、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられたという記録が残っており、何らかの施設が再建された可能性はある。
城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、天守は七層(一説には九層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。柴田時代の建築をしのばせる史料として、宣教師のルイス・フロイスが天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問したときの記録があるが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」とある。この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で(後述)見出された柴田時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城も天守の瓦を笏谷石で葺いている。これは寒冷地では瓦を使用すると凍結などにより瓦が割れてしまうことなどを理由とする。また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、勝家によって足羽川に架橋された九十九橋についても言及がある。次に、勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が戦後間もない天正11年4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九層」であった旨の記載があり、当時の城の大規模であったことが知れる。
平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。
1601年より(旧)北ノ庄城の跡地に、新たに(新)北ノ庄城が築城されたため、現在では(旧)北ノ庄城の遺構を見ることは出来ない。
[編集] (新)北ノ庄城
1600年に家康の次男である結城秀康が福井藩主(67万石)として封ぜられると、翌1601年より築城を開始する。1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する。
[編集] 福井城
1624年に福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が不吉であるとして「北ノ庄」のから「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。(改名の経緯に関しては諸説有り。)
五重の水掘が囲む本丸には四重五階の天守が建てられていたが1669年に焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。
現在は外堀は埋められているが、石垣、内堀などの遺構が残り、御殿の一部は移築されている。本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されている。
また、天守台のそばには「福井」の由来となった「福の井」という井戸が残っており、この井戸には場外へ通じる抜け道があると言われており、その調査もされている。
[編集] 北ノ庄城と福井城の関係
柴田勝家によって築城された(旧)北ノ庄城と結城秀康によって築城された(新)北ノ庄城(後の福井城)との関係は、前者を改築したものが後者であるとする、すなわち前者と後者はほぼ同一であるとする場合と、前者の跡地に後者が築かれたに過ぎない、すなわち前者と後者はまったく違うとする場合に見解が分かれるようである。現状では前者の調査がほとんど進んでおらず、どちらかの見解を肯定もしくは否定することが出来ない。そのため(旧)北ノ庄城と(新)北ノ庄城とを区別せず、混同していることも非常に多い。
[編集] ニホンオオカミ?
1910年8月ごろ、福井城内の松平試農場にて射殺された動物が、ニホンオオカミ(現在のところ1905年に射殺された個体を最後に絶滅したとされる。)なのではないかとする説が発表され学会などで議論されている。残された写真などからはニホンオオカミにかなり似ているのではと言われているが、標本等の多くの資料が戦火で失われており、完全に支持されているわけではない。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 福井城跡(福井市役所からの定点カメラ) - 福井市。
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