竹中重義
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竹中重義(たけなかしげよし、? - 寛永11年2月22日(1634年3月21日))は江戸時代初期の大名。豊後国府内藩主。
[編集] 経歴
徳川秀忠に、長崎奉行として抜擢された。江戸幕府の意向に従い、過酷なキリシタン(キリスト教徒)の弾圧を実施し、穴吊りなど多くの拷問法を考案。幕府の重臣、松平康重の娘を正室として迎え、娘は譜代大名の名家、西尾忠照のもとへ嫁がせていた。官位は、従五位下、采女正。記録上、汚職を咎められ切腹させられた事になってはいるが、事実は重義が二代将軍秀忠の寵臣であったため、家光に代替わりした時に粛清されたものと思われる。
竹中重義は、美濃斎藤氏の武将であった竹中重光の孫で、竹中重治(半兵衛)の従兄弟にあたる竹中重利の子であった。慶長6年(1601年)、父重利の代に関ヶ原の合戦の功によって、豊後高田より豊後府内に移され、二万石を領し大分城を事実上築いた。
父の後をついで藩主となり、配流された松平忠直を府内に迎えている。寛永6(1629年)7月27日長崎奉行に着任。彼の時代に壮絶なキリシタンの弾圧が行われた。穴吊りなど多くのキリシタンを殉教や棄教に追い込んだ拷問が考案されたのも彼の長崎奉行時代であった。さらに島原藩主松倉重政の勧めで雲仙地獄におけるキリシタンの拷問を開始。多くのキリシタンが殉教した。寛永8年(1631年)には有名な絵踏み(踏絵)が初めて雲仙で行われたという記録が残っている。
寛永10年(1633年)大御所徳川秀忠が卒し、徳川家光が完全に権力を握ると最初の鎖国令を発した。これと連動するかのように、竹中重義は密貿易など職務上の不正を訴えられた。すでに寛永6年(1629年)10月に書かれた平戸のオランダ商館長の手紙には、「彼が幕府にしか発行できない朱印を勝手に発行して東南アジアとの密貿易に手を貸している」とある。調査の結果、寛永10年(1633年)2月に奉行職を罷免され、切腹を命じられた。寛永11年(1634年)2月22日、嫡子源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹、一族は隠岐に流罪となった。これにより竹中家の主家は改易・廃絶となった。
[編集] 関連項目
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