第16師団 (日本軍)
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第16師団(だいじゅうろくしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。日露戦争末期、日本軍は12個師団を保有していたが、兵力増強の必要性から4個師団が増設された。第16師団はこの一つである。明治38年7月、京都で編制された師団は編制完結後直ちに満州へ派遣された。しかし、戦闘は概ね終結しており派遣された1ヶ月後に講和条約(ポーツマス条約)が締結される運びとなった為、師団は戦闘はしていない。戦後師団は大正8年から満州駐剳を命ぜられた。一旦帰国するが、昭和4年と同9年に再び満州に駐剳した。
昭和12年7月、西尾寿造中将が司令官の第2軍隷下で、華北戦線に投入された。11月上海戦線に転じ南京攻略戦に参加した。昭和13年1月から徐州会戦に参加し、7月武漢攻略戦を経て昭和14年8月帰国。太平洋戦争ではフィリピン攻略戦に参加し、マニラ陥落後フィリピンに駐屯した。昭和19年からレイテ島に移駐した。大本営はレイテ島での決戦を予定したが、米軍との交戦により壊滅した。当初13000名で臨んだレイテ決戦も生還者は僅か620名で、3人の連隊長が戦死しており、牧野四郎師団長も昭和20年8月10日自決した。
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[編集] 師団概要
[編集] 歴代師団長
- 山中信義:明治38年7月18日
- 長岡外史:大正2年1月15日
- 松川敏胤:大正3年8月8日
- 山口勝:大正5年8月18日
- 梨本宮守正王:大正6年8月6日
- 志岐守治:大正8年11月25日
- 山田良之助:大正12年8月6日
- 南次郎:大正15年3月2日
- 松井兵三郎:昭和2年3月5日
- 山本鶴一:昭和5年8月1日
- 蒲穆:昭和8年3月18日
- 渋谷伊之彦:昭和10年8月1日
- 児玉友雄:昭和10年12月2日
- 中島今朝吾:昭和12年8月2日
- 藤江恵輔:昭和13年7月15日
- 石原莞爾:昭和14年8月30日
- 森岡皐:昭和16年3月1日
- 大場四平:昭和17年8月1日
- 牧野四郎:昭和19年3月1日
[編集] 最終司令部構成
- 師団長:牧野四郎中将(昭和20年8月10日自決)
- 参謀長:松岡賢一大佐(任・昭和19年6月21日。陸士33)
- 作戦参謀:三町進少佐(陸士40)
- 情報参謀:宮田健二中佐(陸士40)
- 後方参謀:北川衛少佐(陸士47)
- 高級副官:中島金右エ門少佐
- 軍医部長:内藤勝樹軍医大佐(任・昭和17年9月22日、昭和20年2月11日死去)
[編集] 最終隷下部隊
- 歩兵第9連隊:神谷保孝大佐(任・昭和17年11月11日、昭和19年12月8日戦死。陸士28)
- 歩兵第20連隊:鉾田慶次郎大佐(任・昭和19年3月1日、昭和19年10月23日戦死。陸士28)
- 後任連隊長:山森友吉大佐(任・昭和19年12月11日、陸士31)
- 歩兵第33連隊:鈴木辰之助大佐(任・昭和15年12月2日、昭和19年10月23日戦死。陸士25)
- 捜索第16連隊:日比知大佐(任・昭和17年8月1日、陸士27)
- 野砲兵第22連隊:近藤喜名男大佐(任・昭和17年12月1日、陸士28)
- 工兵第16連隊:加藤善元中佐(任・昭和15年12月2日、陸士29)
- 輜重兵第16連隊:牧野文一大佐(任・昭和18年6月1日、陸士30)
- 師団通信隊:渡辺竹司大尉(陸士54)
- 師団兵器勤務隊:田頭好夫大尉
- 師団衛生隊:辻忠三郎大佐
- 師団第1野戦病院:安藤棋尾夫少佐
- 師団第2野戦病院:糸井八寿治少佐
- 師団第4野戦病院:畫間和男少佐
- 師団病馬廠:森田栄二郎少佐
- 師団防疫給水部:佐藤幸雄中佐
[編集] 遺構等
師団司令部ならびに一部の隷下部隊・施設は京都市伏見区内に設置されていた。明治41年に完成した第16師団司令部庁舎は後に学校法人聖母女学院が法人本部として利用、師団練兵場は龍谷大学が利用する。また京阪電鉄藤森駅は開業当初師団前という名称であった(昭和16年に現名称に改称)。 この藤森駅付近の師団街道という道路や、琵琶湖疏水に架かる師団橋という橋梁も第16師団の設置に伴い整備されたものである。
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