南次郎
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南 次郎 | |
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1874年8月10日 - 1955年12月5日 | |
生誕 | 大分県西国東郡高田町 |
忠誠 | 大日本帝国陸軍 |
階級 | 陸軍大将 |
賞罰 | 終身禁固刑 (東京裁判) |
除隊後 | 朝鮮総督他 |
南 次郎(みなみ じろう 1874年8月10日 - 1955年12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。東京府尋常中学、成城学校、陸士6期、陸軍大学校17期出身。
生年月日がハーバート・フーヴァー(アメリカ合衆国・31代大統領)と同じである。偶然にも、南の陸相在任期間(1931年)がフーヴァーの大統領在任期間(1929~1933)と重なった。
第2次若槻内閣の陸軍大臣の折に満州事変が勃発するが、対応に手を拱いて結果的に関東軍の方針を全面承認した。昭和11年朝鮮総督になり内鮮一体化を唱え、民族語の禁止、日本語教育の推進、創氏改名による日本名への改名、などの政策により、朝鮮人には、皮肉って「南太郎」と改名した人もいた。南が朝鮮総督として、君臨した6年間に朝鮮人の日本人化政策は推進され、朝鮮人を日本軍として駆り立てる上で南が果たした役割は大きい。(ただし、実際には政務総監の大野緑一郎に全て丸投げしていたとの評もある)。
後に枢密院顧問官、貴族院議員、大日本政治会総裁(翼賛議会下の実質上の単一政党)を歴任する。
第二次世界大戦後、満州事変の責任でA級戦犯に指名され、東京裁判で終身禁固刑となる。1954年仮出獄。南は軍事思想として、国防は政治に優先すると常に唱えた。
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極東国際軍事裁判・A級戦犯 |
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