ポーランド侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポーランド侵攻(ポーランドしんこう)とは1939年9月1日にドイツ軍とドイツと同盟したスロヴァキアの軍部隊が、9月17日にソ連軍がポーランド領内に武力侵攻したことを指す。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが9月3日にドイツに宣戦布告し、ポーランド侵攻は第二次世界大戦に拡大することになる。
- 英語:Polish September Campaign (ポーランド9月作戦)、あるいは Polish-German War of 1939 (ポーランド-ドイツ戦争1939年)
- ポーランド語:Wojna obronna 1939 roku (防衛戦争1939年)
- 独語:Polenfeldzug (ポーランド戦役)
目次 |
[編集] 概要
ポーランドへの侵攻作戦はソ連外相モロトフとドイツ外相リッベントロップの独ソ不可侵条約調印の一週間後、すなわち1939年9月1日に開始され、同年10月6日にドイツとソ連は実質的にポーランド全域の占領を完了することとなった。ポーランド分割占領は先の条約の秘密合意事項であった訳である。ポーランド侵攻が後に第一次世界大戦を規模においても被害においても凌駕する大規模な世界戦争になるとは当時誰も予想しなかった。
ヒトラーは自作自演の「ポーランド正規軍によるドイツ領のラジオ放送局への攻撃」(グライヴィッツ事件)を口実にドイツ軍にポーランドに対し北部、南部、西部の三方面から攻撃を命令した。ドイツ参謀本部はこの作戦に「白の場合」という秘匿名称を付けて準備していた。
ドイツと接する長大な国境線を薄く浅くしか防衛準備出来なかったポーランド陸軍は、開戦後すぐにドイツ軍に押されて東へと戦線を後退させられた。9月中旬にワルシャワ西方のクトノ市での戦い(ブルザの戦い)に破れると、戦局はドイツ軍に有利となり、ポーランド軍はさらに自国領の東南部へ後退を始め、ルーマニアとソ連と国境を接するルーマニア橋頭堡に防衛陣地を固持し、イギリスやフランスの同盟国によるドイツ攻撃と救援を待ち持久戦に入る計画であった。
1939年9月17日、ドイツ軍の侵攻に呼応しソ連軍がポーランド東部へ侵攻を開始した。東ヨーロッパをドイツとソ連が分割支配する独ソ不可侵条約の「秘密議定書」をソ連が忠実に実行した訳である。ソ連によるポーランド攻撃によってヒトラーの軍隊はワルシャワ攻略に集中することができるようになった。ソ連による侵略はポーランドにとっては予期外であった。ポーランド政府はルーマニア橋頭堡の防衛はもはや不可能と判断し、全軍に対し中立国のルーマニアへの脱出を命令した。10月1日までにドイツ軍とソ連軍はポーランド全域を完全に制圧した。ポーランド政府は降伏せず、残存する陸軍および空軍の部隊と共にルーマニアとハンガリーへ脱出した。脱出したポーランド軍将兵の多数は後に西側の自由ポーランド軍に参加し、フランス、フランス統治下のシリアを経てイギリスで闘うことになる。
占領下のポーランドは第二次大戦を通じて強力な対独レジスタンスを展開し、また亡命ポーランド人部隊は連合国に対し多大な軍事的貢献をした。ドイツは1941年6月22日にバルバロッサ作戦を開始し、ソ連占領下のポーランドを奪うが、1944年には反撃するソ連軍に対しその地をまた明け渡すことになる。ドイツとソ連の5ヵ年以上の占領期間にポーランドの全人口の20%が殺害され、ポーランド第二共和国は事実上消滅することになった。
[編集] それぞれの兵力
[編集] ドイツ
ドイツはポーランド軍に対し圧倒的な数的優位を維持し、強大な軍事力を準備していた。陸軍はI号戦車やII号戦車といった軽戦車を主力として、より攻撃力のあるIII号戦車やIV号戦車を含めて約2,400両もの戦車を保有し、6個の装甲師団を編制、新しい攻撃理論を構築していた。理論上では戦車部隊の集中運用によって、他の作戦部隊と共に敵の戦線のあちこちに突破口を穿ち、敵部隊を孤立させ、その上で歩兵部隊が孤立した敵部隊を各個撃破することとなっていた。作戦は適宜繰り返され、自動車化されていない歩兵部隊や各歩兵によって補完されることとなっていた。空軍は戦術的・戦略的な空からの軍事力を提供した。とくに急降下爆撃機は敵の補給線や通信線を遮断することになっていた。陸と空からの攻撃をあわせた立体作戦には電撃戦というニックネームがつけられた。しかし歴史家一般の見解では、ポーランド侵攻時におけるドイツ軍の作戦はまだ保守的であって、19世紀にクラウゼヴィッツによって提唱された伝統的な殲滅戦理論に即したものであった。
航空機は侵攻作戦における主力であった。爆撃機は無差別爆撃により都市と一般市民を攻撃し、一般市民の間に多くの犠牲者を出した。ドイツ空軍は1,180機の戦闘機、290機のJu87シュトゥーカ急降下爆撃機、290機の爆撃機(主にハインケルHe111双発爆撃機)、240機の種々の水上機から編成されていた。当時のドイツは全部で3,000機近い航空機(そのうち2,000機は新鋭機)を保有しており、半数がポーランド戦線に投入された。ドイツ空軍は1939年時点における世界で最もよく訓練され、装備の充実した空軍であった。
1939年当時のドイツ海軍は第一次世界大戦開戦時の1914年8月当時よりも弱体だった。1939年の連合国はドイツよりも多くの大型の軍艦を保有していた。しかし第二次世界大戦中を通じて連合国の艦隊とドイツの艦隊が直接相見えることはなかった。あったのは、ドイツのポケット戦艦や仮装巡洋艦による個別的な通商破壊戦だけだった。1939年当時ポーランドの同盟国はバルト海でドイツ海軍と戦う意思もその用意もなかったので、ドイツ海軍はより小規模なポーランド艦隊に対しては有利であった。
[編集] ポーランド
1936年から1939年にかけてポーランドは国土の中西部から南部に広がる中央産業地帯(Centralny Okręg Przemysłowy)に大規模な産業投資を行った。来るべきドイツとの防衛戦争の準備が数年かけて行われていたが、戦争開始は早くて1942年以降と予想しており、工業化計画もそれに則して行われていた。ポーランドは自国の工業化の資金調達のために近代機器の多くを生産・輸出していた。ポーランド陸軍は数字の上ではおよそ100万人の兵士を有していたが、実際はほとんどが予備役で、1939年9月1日までに実際に動員されたのはその半分にも満たなかった。ポーランドの鉄道等の大量輸送網がドイツ空軍の目標になると、動員に遅れた者の多くが犠牲となった。ポーランド軍はドイツ軍に比べ装甲戦闘車両の数が少なく、その上それらは各地の歩兵部隊に少数ずつ配置されたので、有効に活用されなかった。
ポーランド陸軍(Wojsko Lądowe)の組織および行動の方針は、フランス軍事顧問団を迎えて勝利したポーランド・ソビエト戦争での経験に則ってなされていた。第一次世界大戦の塹壕戦と異なり、騎兵の機動力が最重要視された。1939年当時のポーランドは機動力の有用性を重視し、コストも高くまだ効果も実証されていない兵器を自国軍の主力に置くことに対しては気が進まなかった。それにもかかわらず、実際のドイツとの戦闘で「機動的な騎馬歩兵」として使用されたポーランド騎兵旅団は、ドイツ軍の歩兵と戦車に対して一定の戦果を挙げることとなった。
開戦当時、ポーランド陸軍は、7個軍(Modlin、Pomorze、Poznan、Lodz、Krakow、Lublin、Karpaty)、1個独立作戦群(Narew)、予備隊(独立軍(Prusy)と3個作戦群(Wyszkow、Tarnow、Kutno)から成り、39個歩兵師団、11個騎兵旅団、3個山岳旅団、2個機械化装甲旅団を擁した。開戦後には、更に1個軍(Warszawa)と独立作戦群(Polesie)が編成された。
ポーランド空軍(Wojska Lotnicze i Obrony Powietrznej、通称Siły Powietrzne)はドイツ空軍に比べ圧倒的に不利だったが、一般に誤解されているような、飛ぶこともせず地上で全滅させられたという話は事実ではない。ポーランド空軍には最新式の戦闘機が配備されていなかったが、当時の世界では最もよく訓練されたパイロットたちがおり、数的にも質的にも有利なドイツ機に対しうまく戦った。ポーランドには戦闘用の軍用機がたった400機ほどしかなかった。そのうち戦闘機は169機だった(他に400機の時代遅れの偵察機や練習機があった)。戦闘用の軍用機のうち近代的なもの(PZL 37ウォシ爆撃機)はたった36機だけで、他は皆ドイツ軍機に比べ圧倒的に旧式だった。たとえば1930年代前半に生産されたPZL P.11戦闘機は最高速度がたった約350km/hで、これはドイツの爆撃機よりも遅かった。
ポーランド海軍(Marynarka Wojenna)は駆逐艦と潜水艦、それと小型の護衛艦で構成された小規模なものであった。駆逐艦3隻は、8月30日にポーランドを離れ、ドイツ軍を回避しながら北海へ出てイギリス海軍に合流するペキン作戦(Plan Peking)に従った。潜水艦隊は袋作戦(Plan Worek)に参加した。これはバルト海においてドイツの海上補給線を攻撃しそれに打撃を与えるというものであったが、大きな成功を得ることができなかった。ポーランド商船隊はイギリスのそれに合流し、第二次世界大戦を通じさまざまな商船隊に参加した。
[編集] 開戦前の段階
1933年に国家社会主義ドイツ労働者党が政権を握ると、ヒトラーはまずポーランドとの友好政策を図り、1934年にはドイツ・ポーランド不可侵条約を締結した。英仏の対ドイツ宥和政策の結果としてドイツが1938年にオーストリアを併合し、1939年にチェコスロヴァキアの大部分を併合すると、ナチス政権は矛先をポーランドに振り向けるようになった。ドイツの主な関心事は国際連盟の管理するドイツ人の住む自由都市ダンツィヒの存在と、ポーランド回廊と呼ばれたバルト海に続くポーランド領によってドイツ本土から切り離されている東プロイセンの存在であった。ダンチヒ自由都市はドイツにとって腹立たしい存在だった。ここは第一次大戦におけるドイツの敗戦によってドイツから奪い取られた領土であるため、ヒトラーはダンチヒのドイツ系住民の解放を謳ってナショナリズムを煽った。1939年初頭にヒトラーは軍事力によるポーランド問題の解決を準備する秘密命令を下し、続いてドイツ政府はダンチヒ自由都市のドイツ併合要求と、ポーランド回廊を通過し東プロイセンとドイツ本土を結ぶ治外法権道路建設の要求を強めた。ポーランド侵攻計画は4月3日までに準備が整っていた。
ヒトラーはポーランドがドイツの要求に譲歩するものと考えていた。しかし、ポーランド政府は要求を拒否した。ドイツの拡張主義に危機感を抱いたイギリスとフランスは3月30日にポーランドに対し軍事援助の保証をしてポーランド政府の方針を支持した。ヒトラーはイギリスとフランスを来るべきポーランドとの戦争に介入させないようにできると考えていた。4月28日にドイツは、1934年に締結されていたドイツ・ポーランド不可侵条約と、1935年に締結されていたロンドン海軍軍縮条約の両方を破棄した。一方ポーランドは皮肉にも1938年のミュンヘン協定の直後にチェシン市のうちチェコスロヴァキア領だった部分(チェスキー・チェシンČeský Těšín市)を自国領に併合することでドイツの拡張主義から利益を得ることとなった。この地は以前からポーランドとチェコスロヴァキアで領有権を争っていた経緯がある。チェスキー・チェシンは面積こそ小さいが、人口構成はポーランド人が多数派で、炭鉱を中心としたその経済はポーランドの中央産業地帯(Centralny Okręg Przemysłowy)と密接な相互依存の関係にあった。ドイツとの戦争の可能性は年々高まってきており、ポーランドは自国の工業化を急ぐため中央産業地帯に多大な投資をしていた。
1919年から1939年までの期間、イギリスの基本的な外交政策の主眼は、アメとムチの使い分けによって世界大戦の再発を防ぐことにあった。ムチとは1939年春にポーランドに保証した軍事援助で、これはドイツがポーランドやルーマニアを攻撃するのを防ぐためであった。同時に、首相のネヴィル・チェンバレンと外相のハリファックス卿はミュンヘン協定と同様のやり方でヒトラーにアメを与えることを考えた。これはダンチヒ自由都市とポーランド回廊をポーランドの他の部分の領土保全の保障と引き換えにドイツに返還することであった。
これはしかしポーランド外相ユゼフ・ベック大佐がチェンバレンやハリファックス卿と会談した後、変更された。1939年8月25日にフランス・ポーランド間の軍事同盟を補完するものとしてポーランド・イギリス相互援助条約が締結された。これでイギリスはポーランドの独立を守る義務を負った。
一方、モスクワではドイツとソ連の秘密会談が続けられ、8月22日には独ソ不可侵条約が締結された。ヒトラーはこの条約によってドイツがポーランドを侵攻してもソ連がそれに反対しないことを確実にした。また、条約の秘密議定書に、ドイツとソ連はポーランドを分割占領(西側3分の1はドイツが、東側3分の2はソ連が占領)することに合意した。西側同盟国の諜報機関はこの秘密議定書の内容を掴んでいたが、情報はポーランド政府とは共有されていなかった。
ドイツによるポーランドへの奇襲攻撃は8月26日午前4時に予定されていた。しかし8月25日にイギリス政府は、ポーランドの独立はイギリス・ポーランド間の同盟によって正式に保障されたと発表した。ヒトラーは予定の奇襲をためらい、攻撃開始を9月1日に延期した。その間ドイツは8月26日、ポーランドとの来るべき軍事衝突にイギリスとフランスが介入することを思いとどまらせようと、両国を相手に交渉し、ヒトラーは、ドイツがポーランドを攻撃してもポーランドの西側同盟国がドイツに対し宣戦布告する可能性はほとんどないとの確証を得た。もし宣戦布告しても、ポーランドに対する国境線の確約はないのだから、ポーランドを占領してしまえば交渉によってドイツにとって有利な譲歩を引き出せると考えた。その間にも、ドイツ国防軍の謀略部隊(Abwehr)による国境を越えた襲撃や破壊行為、国境における小競り合い、ドイツの高々度偵察機による領空侵犯の件数は増加し、戦争勃発は差し迫った状態になっていた。
8月29日、ドイツはポーランドに対しポーランド回廊割譲を要求する最後通牒を突きつけたが、ポーランドはそれを黙殺した。ドイツ外相リッベントロップはポーランドとの交渉は打ち切りにすると宣言した。ポーランド軍は戦争勃発に備えた。8月30日、ポーランド海軍は駆逐艦艦隊をイギリスに向けて出航させた(北京作戦Plan Peking)。圧倒的なドイツ海軍によって狭いバルト海で破壊されないようにする措置だった。同日、ポーランドのエドヴァルド・リヅ‐シミグウィ元帥はポーランド軍の「戦時動員」を布告した。しかしフランスはその動員を撤回するようポーランド政府に圧力をかけた。フランスはこの期に及んでもまだ外交的解決を期待しており、ドイツ軍がすでに動員を完了しポーランド国境に集結していることを理解していなかったのである。1939年8月31日、ヒトラーは戦争開始を翌日の朝4時45分とする命令を下した。この時点のポーランド軍は動員予定の70%(予備役も含めた全軍の半分)しか達成できず、多くの部隊は未だ隊形を整えておらず、それぞれ与えられた前線の守備位置に向かって移動途中であった。
[編集] 戦闘の詳細
[編集] 計画
[編集] ドイツの計画
侵攻作戦は陸軍参謀総長フランツ・ハルダーに起案され、陸軍総司令官のワルター・フォン・ブラウヒッチによって指揮された。軍事攻撃は宣戦布告より前に開始されることになっており、近代的な航空戦力と戦車部隊を使った伝統的な殲滅戦理論に則したものであった。歩兵はほとんど自動車化されていなかったが、自走砲部隊と兵站部隊を維持して戦車部隊に支援され、トラックに載せられた歩兵(装甲擲弾兵の前身)は敵前線に集中する侵攻部隊の迅速な移動を助け、孤立した敵の部隊を包囲殲滅することとなっていた。それに対して、グデーリアン等によって戦前に提唱されていた電撃戦理論は、機甲部隊が敵前線に激しい攻撃で突破口を開き、敵の後方深くまで一気に進撃することであったが、実際のところポーランドでの作戦は電撃戦でなく、もっと伝統的な殲滅戦理論に沿って戦われることとなった。これは装甲師団や機械化部隊の役割を伝統的な歩兵部隊の支援に限定すべきだとする陸軍上層部の間に蔓延していた保守主義に原因するものであった。
ポーランドは平野が多く総延長5,600キロメートルもの国境線を抱えた広い国だったので、機動的な作戦に適した国であった。ポーランドは西と北(東プロイセン側)でドイツと総延長2,000キロメートルもの長い国境を接していた。1938年のミュンヘン協定後はドイツとの国境は南部でさらに800キロメートル延長された。ドイツのボヘミアおよびモラヴィア占領と、ドイツの傀儡国家であるスロヴァキアの誕生は、ポーランドの南側面がドイツによる攻撃に対し無防備になっていることを意味していた。
ドイツの戦争計画立案者は長い国境線を侵攻作戦の殲滅戦理論の機動戦術に存分に利用しようと目論んだ。ドイツの各部隊はポーランドを3方面から侵攻することとなった:
- ドイツ本土からポーランドの西国境を突破する主力攻撃。これはゲルト・フォン・ルントシュテット将軍指揮下の南部軍集団がドイツ領シレジアと、モラヴィアおよびスロヴァキア国境から攻撃する。ヨハネス・ブラスコヴィッツ将軍の第8軍はウッチ市へ向け東進、ヴィルヘルム・リスト将軍の第14軍はクラクフ市へ向けて前進しポーランドのカルパチア山系側面を迂回、そしてヴァルター・フォン・ライヘナウ将軍の第10軍は南部軍集団の装甲師団と共に中央に位置し敵に決定的な打撃を与えながらポーランドの中心部へと推し進む。
- プロイセンからの第2の攻撃ルート。フェドーア・フォン・ボック将軍が北部軍集団を指揮する。ゲオルク・フォン・キュフラー将軍の第3軍は東プロイセンから南進し、ギュンター・フォン・クルーゲ将軍の第4軍はポーランド回廊の横切って東進。
- 第3の攻撃は南部軍集団の一部と同盟したスロヴァキア人部隊がスロヴァキアから攻撃。ポーランド国内では開戦前に第五列であるドイツ系住民の自衛団(Selbstschutz)の各部隊が陽動作戦や破壊活動を行いポーランドに侵入するドイツ軍を支援した。
全ての強襲部隊はワルシャワに向かって進軍し、その過程でポーランド軍の主力部隊はヴィスワ川の西で包囲殲滅されることとなっていた。「白の場合」作戦は1939年9月1日に開始され、第二次世界大戦の最初の軍事作戦となった。
[編集] ポーランドの計画
ポーランドの防衛計画、暗号名「西方(Zachód)」はポーランド・ドイツ国境に直接に兵力を展開するという内容である。これはポーランドが他国から侵略を受けた際にイギリスがポーランドに対し軍事的援助を行うという約束を元に立てられた計画である。さらに、ポーランドにとって最も価値のある天然資源、産業、そして人口の多い地域が西部国境付近(シレジア地方)に集中しているため、ポーランドの政策はこれらの地域を防衛することを主眼としていた。特にポーランドの多くの政治家には、ドイツが論争の種にしている地方(たとえば、いわゆる「ダンチヒか戦争か」の最後通牒の原因となったポーランド回廊など)からポーランド軍が撤退した場合、イギリスやフランスはドイツと1938年のミュンヘン協定と同様の新たな平和条約を締結してしまうのではないかという危惧があった。これらの国のどれも、ポーランドの国境と領土を完全には保証していなかった。ポーランドはこれらの前提に立って、川幅の広い自然の要衝であるヴィスワ川とサン川の後方に自軍の大部分を展開すべきだというフランスの助言を無視した。ポーランドの将軍の幾人かはこのフランスの助言をより有効な戦略だとして支持を主張していたが、それは受け入れられなかった。西方(Zachód)計画はポーランド陸軍を自国領の奥深くに撤退する余地を与えたが、撤退は川(ナレフ川、ヴィスワ川、サン川)の付近に準備された場所から後方へとゆっくりと行われなければならなかった。うまくいけばこれによってポーランドは軍の動員完了までの時間稼ぎをし、「西側同盟諸国」が約束どおりの攻勢をかけた時に自軍も大規模な「反転攻勢」にかけられるはずであった。
ポーランド軍にとって最も悲観的なケースとなる「退却戦計画」は、サン川の後方から自国領の東南部地方への撤退と、時間稼ぎの長い防戦(ルーマニア橋頭堡作戦)を含むものであった。イギリスとフランスは両国が戦争に介入した場合でもポーランド軍はせいぜい2ヵ月から3ヵ月の間しかこの東南部の地域で防戦することができないと考えていたが、ポーランドはその場合には自軍は6ヵ月持ちこたえられると判断していた。このポーランドの計画は、同盟国がポーランドと結んだ相互援助条約を遵守してすみやかにドイツに対し攻勢をかけることを前提としていた。しかし、実際にドイツのポーランド侵攻作戦が行われている間、フランスもポーランドもドイツを攻撃する計画を立てていなかった。両国の計画は先の大戦での経験に基づいており、両国は塹壕戦によってドイツの力を弱めることができると考えており、その結果としてドイツに平和条約を結ばせ、ポーランドの独立を回復できると期待していた。しかしポーランド政府はこの両国の計画について知らされておらず、ポーランドの全ての防衛計画は西側同盟諸国の迅速な救援行動への期待の上に立てられていたのである。
結果として、国境を広く防衛するというポーランドの計画はポーランド敗北の主因となった。ドイツによるポーランド侵攻の間、ポーランド軍は非常に広大な国境線に薄く引き伸ばされて配置され、コンパクトな防衛線と有利な防衛配置をとることができず、 補給線も充分守られずに、しばしば機械化されたドイツ軍に包囲される結果となってしまった。ポーランド軍のおよそ3分の1はポーランド回廊とその周辺(ポーランド西北部)に重点配備されたが、彼らは東プロイセンと西方からの敵により孤立させられ、さらに挟撃の危険に晒された。南部では、進撃するドイツ軍の主要進撃路に対し、ポーランド軍は薄く広く配置されていた。同時に、ポーランド軍の別のほぼ3分の1は前線から離れ、エドヴァルド・リヅ‐シミグウィ元帥の指揮下に集結したまま国土の中北部、ウッチ市とワルシャワ市の間に残されていた。前方に集結したポーランドの部隊は大部分が敵の動きに遅れをとり、戦う機会を失ってしまった。ドイツ軍と違い、動員途中で装備の整っていなかったポーランド兵の多くは徒歩で移動せざるをえず、後方の防衛線まで移動することができず、侵略者の機械化部隊が国内に展開する前に適切な配置がなされなかった。
ポーランド軍司令部の戦略的ミスは国境線を防衛するという政治的決断だけではなかった。ポーランドの戦前のプロパガンダでは、ドイツ軍のどのような侵略も速やかに撃退できるとされていたので、ドイツ軍に対する敗北は多くの市民にショックを与える結果となってしまった。市民はそのようなニュースに対する心の準備やそういった事態に対する訓練ができていなかったためパニックに陥り東へと避難し、混乱が広まり、兵士の士気も落ち、ポーランド兵の道路輸送も滞ることとなった。ポーランドのプロパガンダはポーランド軍自身にとってもまずい結果となった。通信手段が後方で活動するドイツ軍の機動的な部隊によって遮断され、避難する市民は道路を塞いだため、架空の勝利やその他の軍事行動を伝えるラジオや新聞からの不確実な情報によって連絡そのものが混乱に陥った。このためいくつものポーランド部隊は実際のところは敵に包囲されていても抵抗不可能だという見込みを信じず、部隊全体は反転攻勢をかけているとか、自軍が勝利を収めた地域から援軍が得られるという誤った判断をしていた。
[編集] 第一段階: ドイツによる侵略
ドイツによる種々の自作自演の事件(ヒムラー作戦)は、ドイツの軍事行動は自衛権の行使なのだというプロパガンダに利用された。1939年8月31日、当時ドイツ領(現在はポーランド領)にあったグライヴィッツ(ポーランド名グリヴィツェ)市のラジオ放送局にアルフレッド・ナウヨック親衛隊少佐率いる特殊工作部隊がやってきて、ドイツ領シレジア地方のポーランド系住民に向けて、ストライキを決行するようポーランド語で呼びかけた。「ポーランドによるラジオ局襲撃事件」に見せかけるのが目的だった。よりそれらしく見せるために、親ポーランド的だとして前日ゲシュタポに逮捕されていたシレジア人のフランチシェック・ホニオックを現場に連行し、ポーランドの反乱兵の服装をさせ、彼に致死量の毒物を注射して銃で撃った。ホニオックの死体はまるでラジオ局襲撃の際の攻防で殺害されたかのように現場に放置され、ドイツの警察とマスコミに対して、これはポーランド側の襲撃の動かぬ証拠として差し出された。ドイツ側はこの偽装工作を「缶詰」(Konserve)という暗号で呼んでいた。そのためこの偽装工作事件は「缶詰作戦」という不正確な名前で知られている。ヒムラー作戦で実行されたドイツによる偽装工作はこのグライヴィッツ事件のほか、ポーランド国境付近の放火事件や偽のプロパガンダ活動事件など全部で21件とされている。アドルフ・ヒトラーは帝国議会での宣戦布告の演説でこれら21件の事件に触れ、ポーランドへの「自衛権」行使は第三帝国の正当な権利であるとした。
大規模な軍事行動は宣戦布告がないまま1939年9月1日午前4時40分に開始され、ドイツ空軍がポーランドの街ヴィエルニを奇襲攻撃し、爆撃でその75%を破壊、ほぼ1,200人の市民を殺害した。5分後の午前4時45分には旧式戦艦のシュレスヴィヒ‐ホルシュタインが、バルト海に臨んだダンチヒ自由都市郊外にポーランドの飛び領土となっていたヴェステルプラッテの要塞に対し砲撃を加えた。同日は、ドイツ空軍がポーランドの各都市を爆撃するとともに、ドイツ陸軍がポーランド国境の西、南、北の3方から一斉に進撃を開始した。午前8時にはその数時間前から行われていたドイツ空軍の急降下爆撃に支援されたドイツ陸軍南部軍集団に属する2個装甲師団および1個歩兵師団が、ポーランド領シレジアの村モクラ近郊において地上攻撃を開始したが、ポーランド軍1個騎兵旅団(ヴォウィン騎兵旅団)、1個歩兵師団のいくつかの部隊、および数時間後に到着した1本の装甲列車(No.53「シミャウィ」号)によって同日中に撃退された。ドイツ軍の主力はポーランド西部国境から東へ向かうルートを進んだ。第2のルートは北の東プロイセンから進軍し、南方のスロヴァキアからは第3のルートとしてドイツ軍とスロヴァキア人部隊(ベルノラーク軍)が進軍した。これら全ての侵略軍はポーランドの首都ワルシャワを最終目標とした。
ポーランドの西側同盟国の政府は9月3日にドイツに宣戦布告した。しかし実際にはポーランドに対して具体的な援助をしなかった。ドイツ軍のほとんどの戦力(装甲部隊の85%)はポーランド攻撃に向けられていたのに、フランスはドイツを攻撃せず、独仏国境は静かなままだった。人はこれは偽の戦争(英語phony war、フランス語Drôle de Guerre、ポーランド語Dziwna wojna、ドイツ語Sitzkrieg)と呼んだ。
ポーランド軍は国境付近でのいくつかの戦闘で勝利を収めることができたが、全体としてのドイツ軍の戦略的、戦術的、数的優位はゆるがず、国境地帯からワルシャワやルヴォフの方へと後退させられていった。ドイツ空軍は作戦の早い段階で制空権を確保した。北から攻め込むクルーゲの部隊が当時の国境線から10キロメートル先にあったヴィスワ川に到達し、キュフラーの部隊がナレフ川に行き着いた9月3日までに、ライヘナウの機甲部隊はヴァルタ川を越えていた。2日後にはライヘナウの部隊の左翼がウッチ市の後方へ進み、右翼がキェルツェ市に到達した。そのうちの1部隊は9月8日にはワルシャワ近郊まで迫ったが、これは最初の1週間で224キローメートルを進んだことになる。ライヘナウの右翼のうちの軽装の部隊は9月9日までにワルシャワとサンドミェシュ市の間にあるヴィスワ河畔地域に到達していた。このとき南部のリストの部隊はプシェミスル市近郊のサン河畔にいた。この間、グデーリアンは第3軍の戦車を率いてナレフ川を渡り、ワルシャワを包囲するようにして、ブーク川の敵戦線を攻撃していた。ドイツ軍全軍は予定通りに「白の場合」作戦を実行していた。ポーランド陸軍は寸断されて互いに連絡がつかず、いくつかの部隊は退却し、他の部隊は離れた味方と連携のとれないまま近くのドイツ部隊に攻撃を敢行せざるを得なかった。
ポーランド軍はこの国境の戦いと呼ばれる一連の戦闘の後、最初の1週間でポモージェ地方、ヴィエルコポルスカ地方、シロンスク地方を放棄せざるを得なかった。これによって、国境地帯を広く防衛するというポーランドの当初の計画は完全に誤りであったことが明らかとなった。一部に遅れがあったものの、全体としてドイツ軍の進軍はほぼ予定通りに行われた。新しく設定された東方の防衛線にまで後退するポーランド部隊はドイツ軍の進撃のペースに間に合わなかった。9月10日には、ポーランド軍総司令官リヅ‐シミグウィ元帥は全軍に対し東南部のいわゆるルーマニア橋頭堡地方への全面撤退を命令した。
一方ドイツ軍はヴィスワ川西方(ウッチ市やポズナニ市など)のポーランド軍に対し包囲網を狭めており、東部への進撃の準備にとりかかっていた。戦争の最初の数時間に猛烈な爆撃を受けたワルシャワ市は9月9日にドイツ地上部隊の最初の攻撃を受け、9月13日からは攻囲を受けた。そのころ、ドイツ軍の最前線部隊は東ポーランドの中心都市であるルヴォフ市にまで到達していた。9月24日には1,150機ものドイツ軍機がワルシャワ市街を攻撃した。
ポーランド侵攻9月作戦における最大の戦い(ブズラの戦い)は、ワルシャワの西方にあるブズラ川の付近で9月9日から9月18日にかけて行われた。この8日間の激戦では、ポーランド回廊から後退してきた「ポズナン」軍団と「ポモージェ(ポメラニア)」軍団が、進撃するドイツ第8軍の側面を攻撃した。はじめはポーランド側が圧していたが、物量に勝るドイツ軍に対するこの攻撃作戦は失敗に終わることとなった。この敗北によってポーランド軍の主導権は完全に奪われ、大規模な反撃はもはや不可能な状況となった。
イグナツィ・モシチツキを大統領とするポーランド政府と、エドヴァルド・リヅ=シミグウィ元帥のポーランド軍最高司令部は9月1日にワルシャワを離れて東南部へと向かい、9月6日にブジェシチ市に到着した。そこでリヅ‐シミグウィ元帥は全軍に対しヴィスワ川とサン川を越えて東方へ移動することを命令し、ルーマニア橋頭堡での長期防衛戦の準備に取りかかった。
[編集] 第二段階: ソ連による侵略
9月17日の時点ではポーランドの当初に計画された防衛線はすでに崩壊していた。ポーランドの唯一の望みは国土の東南部(いわゆるルーマニア橋頭堡)までうまく後退して体勢を立て直すことであったが、その望みは突然にして断たれることとなった。ソ連赤軍が80万人もの兵力を擁してベラルーシとウクライナから二手に分かれ、まだ戦闘地域ではなかったポーランド東部国境地帯(Kresy)に侵攻してきたのである。この行為は、ポーランド・ソヴィエト戦争の講和条約として1921年に締結されたリガ条約、1919年の国際連盟憲章(ソ連は1934年に国際連盟に加盟)、1928年のケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)、1933年にロンドンで締結された侵略の定義に関する条約などの国際法に違反する。ソ連は、「国家崩壊が差し迫ったポーランドにおけるウクライナ系住民とベラルーシ系住民の保護」を大義名分としたが、実際のところはモロトフ・リッベントロップ協定の「秘密議定書」に詳記された、ドイツとソ連とでヨーロッパを二分するという示し合わせに基づいた共同侵略行為であった。[1][2]
およそ25大隊からなるポーランド国境防衛隊は東部国境防衛の任務についていたが、それでもソ連の大規模な侵入は防ぐことはできず、リヅ‐シミグウィ元帥は国境防衛隊に対し、ソ連軍とは直に交戦することを避けて退却せよと命令した。それでも多少の小ぜり合いや戦闘は避けることができなかった。グロドノの戦いでは兵士だけでなく地元の市民までもが防衛戦に参加した。ソ連軍はポーランド軍司令官の一人ユゼフ・オルシナ‐ヴィルチニスキ将軍を含むポーランド人捕虜や、民間人の多数を殺害した。ウクライナ人もポーランド人に対する暴動を起こした。また共産主義ゲリラが各地の反乱を組織し、たとえばスキデルという街ではこの手のゲリラによってポーランド人に対する強盗や殺人が行われた。
ソ連軍による侵攻はポーランド政府に自国の敗戦を覚悟させる決定的な要素となった。東方からのソ連軍侵攻に先立って、ポーランド軍は自らの西側同盟諸国が西からドイツへ攻撃するのを待つ間、東南部地域のルーマニア国境付近における長期防衛戦を敢行しようとしていた。ナチス・ドイツとソビエト連邦という2つの強敵に直面したポーランド政府は、ポーランド領土の防衛はもはや不可能であると判断した。しかし、ポーランド政府はドイツへの降伏やドイツとの交渉を拒否し、全軍に対しポーランドからの脱出とフランスでのポーランド軍再編成を命令した。
その間にも、ポーランド軍の各部隊はルーマニア橋頭堡地方に向けて移動し、ドイツの侵略に対し活発な抵抗を試みていた。9月17日から9月20日にかけて、「クラクフ」軍団と「ルブリン」軍団はドイツ軍によるポーランド侵攻9月作戦における2番目に大きな戦いであるトマシュフ・ルベルスキの戦いにおいて敗北を喫した。ルヴォフ市はいかにも奇怪なこの戦争を例示する一連の出来事のなか9月22日に開城した。というのは、1週間前からドイツ軍がこの街を攻撃していたのに、開城はソ連に対して行われたのである。攻囲の最中にドイツ軍が同盟軍であるソ連軍にこの街を譲り渡したのだった。
ワルシャワは、ドイツ軍の激しい攻撃に対し、他から退却してきて再編成された部隊、義勇市民、ミリシアが応戦し続けたが、ついに9月28日に開城した。ワルシャワ北部のモドリン要塞はモドリンの戦いと呼ばれる16日間の激しい戦闘の後、9月29日に降伏した。各地のポーランド守備隊のいくつかはドイツ軍に包囲されても長い間戦い続けた。ダンチヒ自由都市の先にポーランドの飛び領土となっていたヴェステルプラッテの守備隊は9月7日まで、グディニャ市郊外の街オクシヴィエの守備隊は9月19日まで持ちこたえた。ポーランド軍はソ連軍に対しシャツクの戦いに勝利したが、その後ソ連軍はこのとき捕虜にすることにできたポーランド軍将校や下士官の全員を殺害した。ソ連軍は9月28日までにナレフ川、西ブーク川、ヴィスワ川、サン川まで到達した。多くの場合、西から進撃してきたドイツ軍と互いに出会うことになった。ポーランド最北部でバルト海に臨むヘル半島の守備隊は10月2日まで抵抗し続けた。ポーランド陸軍最後の作戦部隊となったフランチシェック・クレーベルク将軍の独立作戦部隊「ポレシェ」はルブリン市郊外の4日間にわたるコツクの戦いののち、10月6日に投降した。これによってポーランド侵攻9月作戦は終了した。
[編集] 各軍の損失
ポーランド軍の死者数は66,000人、負傷者133,700人、捕虜となった者694,000人。損失は戦車132両、その他の車両300台、航空機327機(そのうち戦闘機118機)、駆逐艦1隻、機雷敷設艦1隻となっている。
ドイツ軍とスロヴァキア軍の同盟軍の死者数はあわせて16,343人、負傷者27,280人、行方不明320人、捕虜となった者は解放されたためその数は記録されていない。損失は戦車300両、その他の車両1,000台、航空機は最大で141機、機雷敷設艦1隻となっている。
ソ連の死傷者数、負傷者数は不明、捕虜となった者は解放されたためその数は記録されていない。損失は戦車42両が破壊され、戦車数百両が故障で使用不能となった。
[編集] 犠牲となった市民
ポーランド侵攻は、戦闘中や戦闘後に殺された市民が多く、ヨーロッパで行われた最も犠牲の大きな全面戦争の一つであった。侵攻開始直後からドイツ空軍は民間人や避難民の行列を攻撃対象にして凄惨な損害を与え、ポーランド軍後方の通信を混乱させた。このような無差別攻撃は9月1日午前4時からのヴィエルニ空襲が最初で、このヴィエルニ市への攻撃ではドイツ空軍によっておよそ1,200人の民間人が犠牲になった。最終的には、戦闘での直接の犠牲者とは別に、国防軍と親衛隊は何万人ものポーランド人捕虜と民間人に対する大量虐殺を犯したとされている。
また、 タンネンベルク作戦によって、国防軍、親衛隊、自衛団(ドイツ系ポーランド人で構成され、メンバーは戦前から編成され、ドイツでゲリラ戦の訓練を受けていた)の他、特別行動部隊(Einsatzgruppen)という特別部隊もあわせてドイツ人のあらゆる武装組織が、作戦開始時の1939年8月から1939年10月までに約760箇所でおよそ20,000人のポーランド人の民間人、主に知識層、芸術家、社会的指導層に属する人々を銃殺した(そのうち2,000人はドイツ国籍を持ちドイツに住んでいたポーランド系ドイツ人で、彼らは開戦前の1939年8月中に殺害された)。タンネンベルク作戦は1939年5月から計画され、ポーランドに住んでいるドイツ系ポーランド人(主に自衛団員)もこの計画に協力して、総計61,000人にも上る「ポーランド人徴集者リスト」(Sonderfahndungsbuch Polen)が作成され、殺害はこのリストに則って実行された。ヨーロッパにおける第二次世界大戦の全期間を通じてドイツは占領下のポーランドでハーグ陸戦条約やジュネーヴ条約といった戦時国際法に明確に違反する様々な戦争犯罪を犯したが、タンネンベルク作戦におけるポーランド人大量虐殺事件はその最初の事例の一つとなった。
また1939年9月3日、ビドゴシチ(ドイツ名ブロンベルク)市内を通過して退却するポーランド軍部隊の兵士や近くにいたポーランド人住民に対して、ドイツの第五列構成員と思われる反乱分子が建物の屋根や教会の塔から銃撃してきた。開戦前のポーランドではドイツ系のポーランド人民間人が銃などの火器を所持することは厳重に禁止されていたが、ドイツ系住民はドイツ本土からの潜伏者を通じて、大量の銃砲を密輸し秘密裏に保持していた。この銃撃に対応して、ポーランド側の兵士や民間人は、反ポーランド破壊活動に参加していると疑われるドイツ系ポーランド人住民の家々を捜索し、私刑を行った。犠牲者の中には女性や未成年者も含まれていたとされている。このときビドゴシチ市内で殺害されたドイツ系ポーランド人住民の数は223人から358人の間と推定され、郊外の村々ではさらに多数のドイツ系住民が殺害されたとされるが、当日はビドゴシチとその周辺でドイツ空軍による激しい無差別攻撃が行われていたこともあって、この事件単独の正確な犠牲者の数はいまだ不明であり、この日のポーランド側の対応による直接の犠牲者は現在でも議論の対象となっている。この事件について、ドイツ側は犠牲者の数をまず5,000人と発表し、これもすでにかなり誇張された数字であるが、その後も国内外へ向けての反ポーランドプロパガンダ政策推進のためその数字をさらに大幅に誇張して58,000人とし、最終的には60,000人以上として宣伝した。ドイツはこれを公式にブロンベルクの血の日曜日事件と名づけた。
それから1週間後の9月9日から9月10日にかけて、実際は先週の事件より大規模となった「もう一つのブロンベルク血の日曜日事件」がビドゴシチ市で起こった。この両日、すでに市内に入城していたドイツ軍は9月3日の事件の報復と称し市内や周辺の各地でおよそ3,000人のポーランド人を無作為に選んで広場で銃殺するなどの様々な無差別殺人を行った。当時市内にいたイギリス人の目撃談によると、最初に殺害されたのは12歳から16歳までのボーイスカウトのメンバーの子供たちで、彼らは市内のマーケット広場に連れてこられて銃殺された。ドイツはさらに年末までに13,000人のポーランド人を、ポーランド北部に建設された、のちに絶滅収容所の一つとなるシュトゥットフ強制収容所に送った。
ドイツ軍のポーランド侵攻の期間、民間人の総犠牲者数は、ポーランド人約150,000人、ドイツ人(主にドイツ系ポーランド人)約5,000人と推定されている。
[編集] その後
ポーランド侵攻作戦の直後、ポーランドはナチス・ドイツ、ソビエト連邦、リトアニア、スロヴァキアの4カ国に分割占領された。ドイツは占領したポーランド領の一部をドイツ本土に併合し、残りの占領地域をいわゆるポーランド総督府領として支配した。
このようにしてポーランドはおもにドイツとソ連に分割され、ドイツ軍とソ連軍はポーランドの土地において互いを迎えあった。9月28日、前月に締結されたモロトフ・リッベントロップ協定の秘密議定書を修正する新しい秘密議定書がドイツとソ連の間で交わされ、リトアニア領全域をドイツでなくソ連の支配下に置くこと、ポーランドを分割する境界線はドイツのために東のブーク川まで移動することが決められた。ブレスト=リトフスク(現ポーランド名ブジェシチ)市では、ドイツ軍が新しい独ソ境界線の西へと撤兵する前に、ソ連軍とドイツ軍の両軍が勝利パレードを行った。
ポーランド侵攻では約65,000人のポーランド兵士が戦闘の犠牲となり、約680,000人が捕虜にされた(そのうちドイツ軍はとソ連軍はそれぞれ少なくとも420,000人、240,000人を捕虜にした)。ポーランド将兵のうち約120,000人はルーマニア橋頭堡と呼ばれる地域を通って当時中立国であったルーマニアとハンガリーへ脱出し、約20,000人はラトビアとリトアニアへ脱出した。脱出に成功した将兵の大多数は最終的にフランスやイギリスへ渡った。ポーランド海軍艦艇のほとんどはイギリスへうまく抜けることに成功した(北京作戦Plan Peking)。ポーランド軍に対してドイツ軍の犠牲は比較的少なかった(戦闘での死者数は約16,000人と見積もられている)。しかしその一方でポーランド侵攻作戦に参加した戦車などのドイツ軍装甲戦闘車両の30%以上が失われたのも事実で、これが理由でドイツは西欧諸国へ即時攻撃する計画を放棄せざるを得なかった。
ドイツ、ソ連、ポーランドの西側同盟諸国のどの国も、ポーランドで行われた戦争が規模においても被害においても第一次世界大戦を凌駕する大規模な戦争につながるとは予想していなかった。1939年の段階ではドイツの戦争準備は充分に整っておらず、ヒトラーはフランスなどの西側諸国を攻撃しようとはしていなかった。ヒトラーがイギリスとフランスとの平和交渉がもはや無益だと判断するまでは数ヵ月かかった。日本がヒトラーと同盟してアメリカを攻撃したり、ソ連とアメリカがヒトラーと日本に対抗する同盟を結んでヨーロッパと太平洋それぞれにおける戦争が結合し本当の世界大戦にまで発展するのは何年も先の話だった。1939年当時の政治家や将軍たちには見通せなくても歴史的にみれば明らかなことは、このポーランド9月戦争(ポーランド侵攻)こそがヨーロッパにおける第二次世界大戦の始まりであり、それが1937年に始まった日中戦争や1941年に始まった太平洋戦争と結びついて、後に本当の意味での第二次世界大戦として知られるようになった大戦争に発展していったことである。
9月1日にポーランドが侵略されたことを受けてイギリスとフランスは9月3日にドイツに宣戦布告したが、これはドイツのポーランド侵攻に対して直接兵を送ることをせず、また、ドイツ西部国境を犯すこともせず、人はこれをまやかし戦争と呼んだ。ポーランド人の多くは自分たちが西側同盟諸国に裏切られたのだと感じた。一方ポーランドは同盟諸国に対する自らの義務事項を遵守し国家としては決して降伏せず、フランス(のちにイギリス)に亡命政府(ポーランド亡命政府)を樹立した。このポーランド亡命政府は、1939年以前の政府の法的な継承者で、ポーランドに残された人々による民間の、あるいは軍事的な地下組織(ポーランド秘密国家)と連携した。ドイツ占領下におけるポーランド人は、第二次世界大戦におけるすべてのドイツ占領地域のなかで最も強力で、最もよく組織された抵抗勢力として戦いつづけた。つまり、アメリカとソ連がドイツに対する戦争に加わるまで、ポーランドは自国領が占領されながらも連合国のなかでは3番目に大きな軍事力を保持していたことになる。
ポーランド侵攻は東ヨーロッパにドイツ民族の「生存圏」を確保するというヒトラーの東方植民地化計画(Generalplan Ost)の最初のステップであった。当時はまだ不完全であったにせよ電撃戦の原型となった戦術は住宅地を破壊し、まもなく民間人と戦闘員の区別がつかなくなった。続いて行われたポーランド占領(ヴァルテラント帝国大管区、ダンチヒ‐西プロイセン帝国大管区、東プロイセンの一部、東オーバーシュレジェン、ポーランド総督府に分割統治)は第二次世界大戦における最も残忍な出来事となった。
ポーランド総督府以外のドイツ占領地域は全てドイツ本土に編入され、それらの地域に住んでいたポーランド人の多数が着の身着のまま総督府領へと追放された。一方、ドイツとソ連で交わされた住民交換の約束に従って、バルト海沿岸地方(バルト三国)、ガリツィア、ベッサラビアに住んでいたドイツ人はこれらの地域から立ち退きを強制された。約400,000人のドイツ人がドイツ領に編入されたポーランドに移住させられた。対照的に、戦後はポツダム協定に従って、オーデル・ナイセ線より東に住んでいたドイツ人は連合国によって新しく決められたドイツ領に追放された。ドイツ人はポーランド領に残ることも選択できたが、その場合はポーランドの共産主義政府によって全ての私有財産を没収され、改めてポーランド住民としての承認を受けなければならなかった。戦前にポーランド市民だった約2,700,000人のドイツ人(Volksdeutsche)はドイツ占領下では「ドイツ民族度」に従って4つのカテゴリーに分けられ、「民族リスト」(Volksliste)に記載されて取り扱われたが、戦後、この「ドイツ系ポーランド人」のうちポーランドに残った者はポーランドで国家反逆罪に問われ裁判を受けなければならなかった。
ドイツによるポーランド占領中にポーランド人は抵抗組織で活動するとかユダヤ人をかくまうとかいった反ドイツ的行為のほか、許可なく家畜を飼うなどの微罪でも即座に死刑(ほとんどの場合発覚次第その場で銃殺)となり、最終的に600万人のポーランド人(ポーランド全人口の20%)が殺害され、そのうち300万人はアウシュヴィッツなどの絶滅収容所で大量虐殺されたといわれている。
また、1940年の夏にAB行動が行われた。これは前年の1939年8月から10月に行われたタンネンベルク作戦と同じようにして、ドイツ占領下のポーランドでポーランド人の社会的指導層や知識層に属する人々を殺害する作戦であり、結果的にポーランド民族を文化的に無力化することを最終目標とした。これによって約30,000人が逮捕され、そのうちほぼ7,000人が即座に殺害され、残りは各地の強制収容所に送られた。
タンネンベルク作戦もAB行動も、ドイツ新領土からのポーランド人追放とともに、ドイツ東方における民族浄化計画である東方植民地化計画の一環でポーランド民族に対して行われた事件の例である。
一方、1939年から1941年にかけてのソ連によるポーランド占領でも、180万人ものポーランド市民が殺害されるか国外追放された。NKVDによって共産主義体制にとって危険分子であると判断された人々はすべて、ソヴィエト化教育を受けるか、シベリアなどに移住させられるか、労働収容所(グラーク)に収監されるか、または殺害の対象になった。ナチス同様、ソ連側も「反逆分子」に対して情け容赦しなかった。ソ連の支配に反抗するとその人物も含めて家族全員がNKVDに逮捕された。国内で大粛清を推し進めたスターリンはかつてのポーランド・ソビエト戦争の敗北でポーランドへかねてから雪辱を晴らす機会を狙っていた。カティンの森事件はポーランド軍将校が虐殺された事件の一つである。ソ連の残虐行為は1944年にポーランドが赤軍によって「解放」された後、再び始まった。戦争の間ロンドン亡命政府の指揮下で抵抗活動を続けてきた国内軍(Armia Krajowa、略称AK)の兵士に対する迫害や、国内軍将校の処刑がソ連によって行われた(モスクワにおける「16人裁判」)。
[編集] この戦いと占領下のポーランドを舞台とした主な映画作品
- 「生きるべきか死ぬべきか」(1942年、アメリカ映画)
- 「エロイカ」(1958年、ポーランド映画、1959年マル・デル・プラタ国際映画祭国際映画批評家賞)
- 「暴力への回答」(1958年、ポーランド映画、1959年マル・デル・プラタ国際映画祭第2位、サン・セバスチャン映画祭国際映画批評家賞)
- 「ブリキの太鼓」(1979年、西ドイツ・フランス合作映画、1979年アカデミー賞外国語映画賞、カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞)
- 「白い決死隊」(1954年、ポーランド映画、1955年ヴェニス国際短編記録映画祭受賞、トレント山岳映画祭受賞)
- 「ぼくの神さま」(2000年、アメリカ映画)
- 「聖週間」(1996年、ポーランド・ドイツ・フランス合作映画)
- 「戦場のピアニスト」(2002年、ポーランド・フランス合作映画、2002年アカデミー賞間監督賞など3部門受賞、カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞、全米批評家協会賞作品賞など4部門受賞、英国アカデミー賞作品賞など2部門受賞)
- 「世代」(1954年、ポーランド映画)
- 「地下水道」(1956年、ポーランド映画、1957年カンヌ国際映画察審査員特別賞、モスクワ国際青年学生祭金賞)
- 「不屈の都市」(1950年、ポーランド映画、1951年年カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭名誉賞)
[編集] 関連項目