米軍燃料輸送列車事故
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米軍燃料輸送列車事故(べいぐんねんりょうゆそうれっしゃじこ)は、1967年8月8日未明に東京都新宿区の新宿駅で発生した貨物列車衝突炎上事故である。
[編集] 事故概要
1967年8月8日1時45分、新宿駅構内で、中央快速下り線への渡り線を進行中の浜川崎発立川行き第2471貨物列車(EF10形 38号機牽引、タンク車18両)の側面に、中央快速上り線を進行してきた氷川(現:奥多摩)発浜川崎行き第2470貨物列車(EF10形 40号機牽引、ホッパ車20両)が停止信号を現示していた場内信号機を越えて衝突した。
下り第2471貨物列車は在日米軍立川基地向けの航空機用ジェット燃料(ワイドカット系JP-4)を満載して立川に向け出発した直後であり、一方の上り第2470貨物列車は石灰石を満載の状態であった。この衝突で、第2471貨物列車の3~6両目が脱線し、4、5両目が転覆、タンクから漏れた航空燃料に衝突の火花が引火して爆発を起こし、タンク車3両(4、5、6両目)と第2470貨物列車の機関車が炎上した。
事故の原因は第2470貨物列車運転士の信号冒進で、停止を現示していた場内信号機によるATS警報の確認扱い後、ぼんやりしていて制動操作が遅れ、非常制動をかけたものの間に合わず、時速10km/h前後の速度で第2471貨物列車3両目付近にに衝突した。
タンク車から漏れた72トンもの航空燃料が燃えたため火勢が非常に激しく(新宿の夜空を明るく照らし出すほどに燃え盛った炎は、30mくらいまで立ち昇った)鎮火に手間取ったのと、大量に漏れた揮発性と引火性の高い航空燃料(灯油・ガソリン比1:1)から発生したガスが鎮火後も現場周辺に充満したため酸素バーナーが使用できなかったこと、燃え残ったタンク車からの燃料抜き取り・移し変え作業が日本側で出来ず、在日米軍の手を借りなければいけなかったことなどから復旧作業は大幅に遅れ、翌9日午前4時の復旧完了までのほぼ丸一日の間中央線は停止し、国電1,100本が運休し200万人に影響が出た。
この事故により軍需輸送反対の動きが高まり、国労は10月19日、遵法闘争を展開した。
[編集] 事故後の対策
この前年、国鉄全線にATSが設置完了していたが、これは車内警報装置に5秒タイマーの非常制動機能(5秒間の警報ベル持続中に確認ボタンを押さないと非常制動がかかる)を付しただけのものであり、機能的には赤信号によるATS警報が発動した後に確認ボタンを押すと、その後は赤信号を停車しないでそのまま進行できてしまうという安全性の低いシステムとなっていた(運行規定上は停止が義務付けられていた)。従って、この事故のような確認扱い後の停止信号失念や操作遅れによる信号冒進に対しては全く無力であった。
そのため、国鉄はATS全形式について確認扱い後の注意喚起機能(確認ボタンを押して警報ベル音を消しても列車停止までキンコンとチャイム音が鳴り続ける)を追加し、また、ATS-S形への対策として場内信号直下20mに警報「直下地上子」を新設した。
この「直下地上子」は「直下地上子で非常制動作動」と発表され報道されたが、実際には非常制動機能は無く、あくまでも車内警報発令機能だけであった。実際に直下地上子が非常制動機能を持つようになるのは、1989年4月13日に飯田線北殿駅で発生した正面衝突事故を契機としたATS-Sn形への改良が終了してからである。
また、別の見方として、「大都市の中心部を、危険物を輸送する貨物列車を走らせるべきでない」という意見も出された。この事件をきっかけに従来の山手貨物線・品鶴線経由に代わる東京外環状線の建設が計画された。この外環状線は後に旅客線も兼ねる形で完成し、武蔵野線と名づけられた(京葉線や東京臨海高速鉄道も外環線計画の一部)。ただし、武蔵野線建設の理由はこの事故だけではなく、山手・品鶴貨物線の輸送量が限界に近づいていたことや新たな旅客線を建設する必要があったことの二点も挙げられる。
[編集] 政治運動への影響
この事故は、当時活発であったベトナム戦争反対運動をさらに刺激するものとなった。米軍の燃料はベトナム戦争に派遣される航空機にも使用されるものであり、在日米軍が日本の市民の安全を危険にさらす形でベトナム戦争の兵站になっているという論点から、これに反対する活動が激化した。「米タン(米軍燃料輸送タンク車)阻止」が、学生運動・ベトナム反戦運動のスローガンに付け加えられることとなる。さらに、この運動の一環として翌年に新宿駅騒擾事件が発生することとなった。