綱島
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綱島西一~六丁目・綱島東一~六丁目・綱島台・綱島上町がある。東急東横線の綱島駅は綱島西一丁目に所在する。綱島東三・四丁目と五・六丁目の間には東海道新幹線の高架が通過。鶴見川が綱島東一・五・六丁目の南東側を流れる。地域北西部に綱島街道が通る。戦前から昭和50年代前半までは温泉街であったが、現在残っている温泉施設はごく僅かに過ぎない。
大正3年に温泉(鉱泉)が出て以来、温泉街として、また横浜北部随一の商業地区として発展した。
古くは、全国的に知られたモモ「日月桃」の大産地であった。
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[編集] 地名の由来
「ツナシマ」とは州の中の島、中州、湿地に浮かぶ島、津の島という意味であると言われる。これは地区が、南側の鶴見川、東側の早渕川のに挟まれている地域であることからか、かつて鶴見川または早渕川にあったある中州がツナシマと呼ばれていて、それが自然にその周辺地域をさす言葉になったのかである。
また、「ツナシマ」とは連なり島(つらなりしま)の意であり、かつて鶴見川が東京湾の奥深い入江となっていた時代に、現在の綱島公園、神明社、綱島諏訪神社となっている高台が、複数の島となっていた様子から名付けられたとも言われている。
[編集] 地区の人口
2005年5月末時点・括弧内は前年同月比
- 綱島西一丁目 : 1,812人(▲3.3%)
- 綱島西二丁目 : 3,896人(▲0.3%)
- 綱島西三丁目 : 1,972人(▲1.8%)
- 綱島西四丁目 : 2,638人(▲0.5%)
- 綱島西五丁目 : 5,300人(△5.3%)
- 綱島西六丁目 : 2,992人(△2.9%)
- 綱島東一丁目 : 2,603人(▲0.4%)
- 綱島東二丁目 : 1,390人(△0.1%)
- 綱島東三丁目 : 2,737人(▲0.4%)
- 綱島東四丁目 : 2,401人(▲2.7%)
- 綱島東五丁目 : 3,119人(▲0.5%)
- 綱島東六丁目 : 584人(△3.4%)
- 綱島台 : 2,180人(▲1.4%)
- 綱島上町 : 3,644人(△29.7%)
合計 : 37,268人(△2.6%)
[編集] 沿革
江戸時代は武蔵国橘樹郡の南綱島村および北綱島村であり、天領(幕府直轄地)の農村であった。鶴見川の氾濫に絶えず悩まされ、堤防の上積みを巡り近隣各村との争いも絶えなかった。両村とも水難村のため東海道神奈川宿の定助郷にはならず、加助郷に序していた。この他保土ヶ谷宿の掃除役・普請の人足提供を行っていたが、幕末には神奈川宿の助郷村となっていた。
1989年4月1日町村制施行に伴い、南綱島村および北綱島村の二村は樽村・大曽根村・太尾村・大豆戸村・菊名村・篠原村の周辺各村と合併して大綱村が成立。旧村域に大字を置き、旧村名を大字名としたため、綱島地区には南綱島・北綱島の二大字が置かれた。
1926年2月14日に東京横浜電鉄(現在の東急東横線)が開通し、綱島温泉駅(現・綱島駅)が開業してからは駅前に同社が建設したラジウム温泉の温泉浴場が設置され、また駅周辺は分譲地として売り出された。
1927年4月1日、橘樹郡大綱村は横浜市に編入され、大字南綱島・北綱島を廃し、新たに南綱島町・北綱島町の二町が置かれた。この二町は同年10月1日に神奈川区に編入された。
1929年には東京横浜電鉄による乗合バス(現在の東急バス)が綱島街道上を東神奈川駅まで運行され、次いで1931年に鶴見臨港鉄道が鶴見駅西口まで、また個人の池田利一が千年(現在の川崎市高津区)までの路線を相次いで運行した。
こうしてそれまでは果樹(桃)栽培や養蚕が主産業であった綱島地区であるが、駅前を中心に温泉街が形成されるなど徐々に市街化され、1937年頃より急激に宅地化・工業化が進み、農村から都市へと変化していった。
1939年4月1日港北区に編入。1947年3月12日、早渕川の向かいに位置する飛び地に綱島上町を設置。1949年南綱島町、北綱島町より綱島町を新設し四町になる。いずれも耕地整理事業によるもので、新吉田町・日吉町・箕輪町の各町と境界変更を行った。1951年4月1日、綱島上町を除く三町を校区とした横浜市立綱島小学校が開校。(大綱小学校より分離独立。)1962年3月1日、鶴見区駒岡町字新川向の一部を南綱島町字新田耕地に編入。周囲と共に東急不動産の手により「南綱島住宅」として売り出された。
1971年、綱島郵便局が集配局として開局(港北郵便局より分離。港北区の鶴見川以北を管轄。)。同年9月1日、横浜市立綱島東小学校が開校。(綱島小学校より分離独立。)
1973年6月11日、住居表示が実施され、綱島町・南綱島町・北綱島町を廃し、新たに綱島東一~六丁目、綱島西一~六丁目、綱島台の各町が設置される。これはこれまでの三町の境界が複雑に入り組んでおり、また飛び地も多く混在し合っていた事から東急東横線を境に東西に分け、また台地は綱島台として別個に新設したもの。この時樽町の鶴見川北岸にあった飛び地も編入している。
- 綱島東一丁目 南綱島町字別所耕地・表前耕地の一部及び北綱島町、樽町字堤外の飛地
- 綱島東二丁目 南綱島町字表前耕地・広町耕地・下前耕地の各一部及び北綱島町飛地
- 綱島東三丁目 綱島町の一部、南綱島町字表前耕地・下前耕地の各一部
- 綱島東四丁目 綱島町の一部及び北綱島町飛地
- 綱島東五丁目 綱島町の一部、南綱島町字下前耕地の一部及び新田耕地、北綱島町飛地
- 綱島東六丁目 綱島町の一部、南綱島町字下前耕地の一部及び北綱島町、樽町字堤外の飛地
- 綱島西一丁目 南綱島町字別所耕地の一部及び北綱島町飛地
- 綱島西二丁目 綱島町の一部、南綱島町字別所耕地の一部及び北綱島町飛地
- 綱島西三丁目 綱島町の一部、南綱島町字別所耕地の一部及び北綱島町飛地
- 綱島西四丁目 綱島町の一部、北綱島町字北前耕地の一部、新吉田町字具々田の飛地
- 綱島西五丁目 綱島町の一部、北綱島町字北前耕地の一部
- 綱島西六丁目 綱島町の一部、北綱島町字北前耕地の一部及び南綱島町飛地
- 綱島台 南綱島町字別所耕地、北綱島町字北前耕地・広町耕地の各一部(相互の飛地を含む)
1978年4月1日、横浜市立北綱島小学校が開校。(綱島小学校・日吉南小学校の校区より設置。)
かつては社用族の御用達として、また身近な観光地として栄えた綱島温泉郷も交通機関の発達等により次第に寂れ、また住宅の需要が高まっていたこともあり1990年代までにはその殆どがマンション・商業ビル・駐車場に転換した。
[編集] その他
- 作家・綱島理友のペンネームの由来である。(同氏が綱島在住だった事による。)
- タマちゃん騒動の際、大綱橋畔までタマちゃんが来ていた。
- 林家三平が新婚旅行に訪れた。この他、往年の演歌歌手・三橋美智也が下積み時代、綱島温泉(現・東京園)でボイラーマンをしていた事がある。
[編集] 関連項目
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