芳の里淳三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
芳の里淳三(よしのさと じゅんぞう、1928年9月27日-1999年1月19日)は、千葉県長生郡一宮町出身の、元力士、プロレスラーである。本名長谷川淳三(はせがわ じゅんぞう)。力士時代の四股名には神若淳三(かみわか じゅんぞう)・神若順三(かみわか じゅんぞう)・芳ノ里安秀(よしのさと やすひで)がある。174センチ、84キロ(全盛時)。
[編集] 経歴
神風正一を頼り二所ノ関部屋に入門。1944年1月初土俵。1950年1月新入幕を果たす。小柄ながら、下手投げを得意とする技能派力士として頭角を現し、若乃花、琴ヶ濱とともに「二所の三羽烏」と呼ばれた。
前頭12枚目まで上り詰めるものの、番付運の悪さと部屋の内紛に嫌気が差し、幕内成績39勝51敗の成績を残し1954年9月に廃業。その月10日に二所ノ関の先輩・力道山を大阪府立体育会館に訪ね、日本プロレス入門を直訴して認められ、何と翌日9月11日にデビュー戦を戦う(対宮島富雄、滋賀県・皇子山体育館において)。日本のプロレス界において、当然1番のスピードデビューである。
1956年10月23日、大阪府立で行われた全日本ウェート別選手権に出場、吉原功(後の国際プロレス社長)を破り初代ライトヘビー級王者となった。
1961年、ジャイアント馬場、マンモス鈴木とともにアメリカ遠征へ出発。丈の短いタイツ、ひざ当て、下駄履きといういでたちで反則攻撃を繰り返すヒールとして活躍。このスタイルは、アメリカマットにおける日本人ヒールの伝統となった。
力道山の死後、吉村道明、豊登、遠藤幸吉とともに日本プロレスの経営を担い、1966年1月には社長に就任。日本プロレスの放映権をNET(後のテレビ朝日)にも認める決断をしている(これが後の日本プロレス崩壊の遠因となった、とも言われる)。このときの関係からワールドプロレスリングで解説をしていたこともあった。
後には力道山OB会(レスラーのOB組織)の会長にもなった。
1999年1月19日、多臓器不全により死去。享年70。
[編集] 特記
- 全日本プロレスにおいて、1978年に行われた全日本・国際プロレス・韓国軍による三軍対抗戦。この興行で行われたジャイアント馬場対ラッシャー木村戦において、芳の里はレフェリーを務めている。馬場が木村に足4の字固めを仕掛けると、木村は上半身をリング外に出す体勢でロープブレイク。しかし芳の里はなぜかブレイクを認めず、リングアウトカウントを数え始め、ついには木村はリングアウト負けを宣言された。日本プロレス界における「疑惑のレフェリング」として有名。
[編集] 得意技
- 下駄攻撃(下駄を履いて入場。試合中にその下駄で相手を殴りつける事から「下駄社長」と呼ばれた。)
- 首固め(スモールパッケージホールド。反則攻撃でかく乱した上での決め技として多く使われた。ジャイアント馬場は若手時代、よく引っかかっていた。)
カテゴリ: 日本のプロレスラー | 元大相撲力士のプロレスラー | 千葉県出身の大相撲力士 | 1928年生 | 1999年没