萩城
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天守台 | |
通称 |
指月城 |
城郭構造 |
梯郭式平城、山城 |
天守構造 |
複合式後期望楼型(非現存) |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
現存長屋、石垣、堀、復元土塀 |
位置 |
萩城(はぎじょう)は、日本の城。所在地は山口県萩市。国指定史跡。別名・指月城(しづきじょう)。
目次 |
[編集] 概要
城郭の縄張りは梯郭式平城と山城である指月山頂の詰の丸で構成されている。江戸時代には長州藩の藩庁となった。
日本海に張り出した指月山に詰の丸と、その山麓に本丸・二の丸・三の丸を配し三重の堀を巡らした。
天守は5層5階の複合式後期望楼型である。しかし、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共にことごとく破却され、石垣のみが現存している。解体前の古写真に、天守の在りし日の秀麗な桃山様式の白亜の姿が見られる。近年では他地域に先駆けて破却された天守等を(財源の問題があるが)復元する動きがある。
現在は指月公園(しづきこうえん)として、松下村塾や武家屋敷などとともに萩の観光名所となっている。城の入り口には旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が残っている。城下町も国の史跡となっている。また、指月山には原生林が残り、国の天然記念物に指定されている。
[編集] 沿革
- 戦国時代、指月山に津和野城主・吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となった。
- 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍総大将となった毛利輝元は敗戦により112万石の太守であったが隠居を命じられ、家督を継いだ秀就は防長2国36万9千石に減封された。
- 1603年(慶長8年)幼少の秀就に代わり、輝元は後見役として萩・山口・三田尻(防府市)の3ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めた。これに対し幕府より、海に臨み要害の地である萩が良いとの回答が下った。これは外様大名の雄、毛利氏を山陰の僻遠地に押し込める政策とも言われている。
- 1604年(慶長9年)萩城建造に着手。指月山に連なる干潟を埋め立て、城地を建造した。
- 1608年(慶長13年)落成。平時に建設された城ではあるが、指月山に詰の丸を配するなど、戦時を意識した構えとなっている。
- 1863年(文久3年)時の藩主・毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移し、萩城は藩庁としての役目を終えた。
- 1874年(明治7年)廃城令により天守・櫓などの建物を悉く破却。
- 1951年(昭和26年)国の史跡に指定される。
- 1967年(昭和42年)萩城下町が国の史跡に指定される。
- 1971年(昭和46年)指月山が国の天然記念物に指定される。