葛城 (空母)
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艦歴 | |
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起工: | 1942年12月8日 |
進水: | 1944年1月19日 |
就役: | 1944年10月15日 |
退役: | |
その後: | スクラップとして解体 |
除籍: | 1946年11月15日 |
性能諸元 | |
排水量: | 基準:17,500トン |
全長: | 227.4m |
艦幅: | 22.0m |
全幅: | |
吃水: | |
機関: | 蒸気タービン4軸、104,000馬力 |
主缶: | |
最大速: | 32 ノット |
航続距離: | |
乗員: | |
兵装: | |
艦載機: | 65機 |
第二次世界大戦末期に量産が計画された雲龍型航空母艦の三番艦で、日本海軍が建造した航空母艦の中で最後に完成した空母であった。艦名は、奈良県にある葛城山にちなんで命名された、候補艦名は岩木。
[編集] 艦歴
1942年12月8日に起工し、1944年1月19日に進水している。1944年10月15日に竣工した。鹿児島沖などで公試を行ってはいるものの、燃料が不足し、搭載する航空機も、その搭乗員もないため、終戦まで呉市の三ツ子島近海に係留されていた。
当初は、艦船の迷彩がほどこされていた。すなわち、飛行甲板には緑黒系の縞状迷彩、側面には商船誤認を期待する青系のシルエットの迷彩である。しかし、島の側に係留されていたため、そのような迷彩は役に立たず、特別な対空偽装を行っていた。すなわち、島との間に偽装網をかけ、飛行甲板には家屋や道路を設けるなど島の一部に見せかける方法である。それでも、1945年7月24日および7月28日の空襲で被弾、中破する。しかし、機関部などの船体下部や艦橋などには大きな損傷はなく、航行可能な状態で8月15日の終戦を迎える。
終戦時にも稼動状態であったため、武装解除の後、特別輸送艦(復員輸送船)として用いられることとなった。特別輸送艦として用いられるにあたっては、飛行甲板への通風孔の設置、格納庫への仕切りなどの設置による居住区への改装が行われた(輸送可能人員は3,000から12,000名)。被弾のために、膨れ上がった飛行甲板はそのままの状態であった。塗装も変更され、側面に日の丸と「KATSURAGI」の文字が入れられている。なお、葛城は特別輸送艦として最大の大きさを持っていた。
葛城による復員輸送は海軍省(後に第二復員省)が担当し、1945年12月より開始された。大型・高速の艦であったために、遠方の南方方面を担当し、南大東島やラバウル、オーストラリア、仏印などを航海した。港湾施設が貧弱な地区においては、縄梯子を利用し、復員兵の乗り組みを行った。葛城によって復員したものの中には歌手の藤山一郎もいる。
復員任務終了後の昭和21年11月15日除籍、その後、日立造船桜島工場で解体処分された。
[編集] 雲龍との差異
ネームシップの雲龍とは、以下のような差異がある。
- 対空機銃座の形状が、簡易化により半円形ではなく、半六角形となっている。
- 主機の生産が遅滞した為、陽炎型駆逐艦の主機を流用し、それを2基搭載している。そのため、機関出力が15万馬力から10万馬力に低下し、最大速力が2ノット低下した。なお、主機変更に伴う余剰空間には重油タンクが増設されている。
- 対空噴進砲を始めとして、対空兵器の増備。
- 電測兵装の変更。