信濃 (空母)
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建造中であった大和型戦艦三番艦を戦局の変化に伴い、戦艦から航空母艦として就航。
就役後間もなく米軍による雷撃により撃沈され、実働することはなかった。なお、アメリカ海軍の原子力空母エンタープライズが登場するまで史上最大の排水量を持つ空母であった。
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艦歴 | |
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起工: | 1940年5月4日 |
進水: | 1944年10月8日 |
就役: | 1944年11月19日 |
その後: | 1944年11月29日、米潜水艦アーチャーフィッシュの攻撃により沈没 |
除籍: | 1945年8月31日 |
性能諸元 | |
排水量: | 基準:62,000 トン 満載:71,890 トン |
全長: | 266.1 m 飛行甲板長: 256m |
全幅: | 36.3 m, 水線長:40 m |
吃水: | 10 m |
機関: | タービン4基4軸, 153,000 HP |
最大速: | 27 ノット |
航続距離: | 7,200 海里(16ノット時) |
乗員: | 士官、兵員2,400名 |
兵装: | 12.7mm連装高角砲8基16門、25mm3連装機銃37基、25mm単装機銃40基、12cm28連装噴進砲12基 |
艦載機: | 常用42機、予備5機(総数18機という説も) |
目次 |
改装までの経緯
大和型110号艦
第四次補充計画の中で大和型戦艦建造番号「110号艦」と「111号艦」の計2隻の建造が決定された。この2隻は、先に建造された大和と武蔵不具合を改善するなど、より完成度の高い艦として建造されることとなった。110号艦は、横須賀海軍工廠第六船渠で建造されることとなり、まずドックの拡張工事が行われ、6年の歳月と約1,700万円(当時)の費用をかけて全長336メートル・前幅48.5メートル・深さ13.4メートルのドックが完成した。この時排出した土砂は、近くにあった砲術学校へと運ばれ、同学校のグラウンドが拡張される事となる。 1940年(昭和15年)5月4日、ドックの完成と同時に110号艦の起工式が行われたが、この時行われる神主のお祓いも、機密保持のため本職ではなく資格を持つ工事関係者が行ったと言う話がある。
建造中止
昭和20年初頭の完成を目指し工事が進められている途中、太平洋戦争が勃発。開戦劈頭の真珠湾攻撃とマレー沖海戦の結果、戦艦が航空機に対し脆弱性を露呈したのと、戦時急造艦の製作などで資材をそちらに使うため、111号艦は建造中止、解体(戦艦伊勢、日向の航空戦艦化の資材として一部使用)となり、ある程度船体ができていた110号艦はドックから出せる程度まで工事が進められたものの、その後の予定が取り消しとなってしまう。その上、建造資材を損傷艦にまわされるなどして、その工事ものびのび(一説には停滞)となってしまった。
ミッドウェー海戦
ミッドウェー海戦の結果、保有正規空母の2/3を失った海軍は、戦時急造空母の建造を決定すると共に、既存艦の空母への改装として、110号艦の空母への改造が決定する。
この改装の初期案では、
- 艦直衛用の戦闘機以外の機体を搭載しない。
- 飛行甲板に重防御を施す。
との意見が出された。
よく「このコンセプトは大鳳の延長である」との意見があるが、「大鳳」があくまで「既存の空母の弱点である飛行甲板の防御」を主として建造されたのに対し、110号艦はあくまで「洋上の飛行基地」であることを第一として考えられている。しかしこの案は軍令部側からの反発を招き、2ヶ月近い議論の末、攻撃機を搭載することを艦空本部が了承し建造が1942年6月再開する。
特徴
飛行甲板
当初の案では、「800Kg爆弾の急降下爆撃に耐えること」となっていたが、甲板の重量増加と製造能力の関係から、500Kg爆弾に変更された。その要求を満たすため、20ミリの特殊甲板に75ミリのCNC甲板を貼り合わせた計95ミリの装甲板となった。材質及び厚みそのものは大鳳と変わらないが、その装甲は全長256メートル、最大幅40メートルの飛行甲板全てに張られている(大鳳は、離着艦に必要な部分のみ)。更に大鳳では見送られた、飛行甲板の前部と尾端近くの2ヶ所に設けられていた13m四方のサイズのエレベーターにも同じ厚みの装甲が張られ、その重量は180トンとなった。
格納庫
日本空母の殆ど全ての艦が密閉型格納庫なのに対し、攻撃機搭載用の前部2/3は解放型で、戦闘機搭載用の後部は密閉型という特異な形態となっている。前部が開放型なのは、攻撃を受け火災が発生した際、そこから爆弾や魚雷を投棄するためである。格納庫は一層しか持っていないが、これは、検討当時の110号艦は、艦中央が中甲板付近の工事が進んでいた状態であり、それより下に格納庫を持たせることができなかったためである。しかし、そのため重心の上昇を抑えることができ、飛行甲板全ての装甲化が可能になったといえる。
船体防御
本艦は、大和型戦艦として建造されていたため、空母として十分以上の装甲を持っていた。ただし、水線上の舷側装甲が410ミリから200ミリへと装甲が減らされている。戦艦当時の主砲弾薬庫は、そのまま空母の高角砲弾・機銃弾・爆弾・魚雷庫と使用され、航空機用燃料庫には、通常使用される25ミリに111号艦の弾薬庫の底部装甲を貼り合わせている。また、磁気機雷対策として、大和型戦艦の二重底から三重底へと強化されている。
艦橋
艦橋は右舷中央部に大型の島型艦橋が設置された。艦橋の後部は煙突であり、外側に傾斜した上方排出の煙突となっていた。
完成まで
二転三転する竣工時期
建造が再開されたのは1942年9月、竣工は1945年2月末の予定とされた。ところが、ガダルカナル島をめぐる戦いから多数の艦艇を喪失し、さらにその後も敗走などにより損失艦が続出。1943年3月「損傷艦の修理、松型駆逐艦及び潜水艦の建造」を最優先とし、同年8月、110号艦の建造は中止されることとなる。ところが不思議なことに、竣工時期は1945年1月と1ヶ月以上早められている。
しかし、その3ヶ月後に発生したマリアナ沖海戦で、翔鶴・大鳳・飛鷹と三隻を失う敗北をし、その後進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦が必要との意見があがり始めることとなる。そして同年7月、1944年10月15日までに竣工させよとの命令が下ると共に、「軍艦信濃の本籍を横須賀鎮守府とする」との発令が下ることとなり、110号艦は進水を待たずに航空母艦信濃として艦名が決定することとなる。
余談だが、ほぼ同じ時期に、空母の艦名に山岳名を使用することが決定しているが、信濃「山」などという山岳名は存在しないため、この名称は、戦艦の命名基準である旧国名の信濃国から採られている事が分かる。
進水式まで
ただでさえ建造予定が遅れているにもかかわらず、初期の竣工時期より5ヶ月近く短縮した上に、熟練工を兵役で取られ、その不足を補うために民間造船所の工員や海軍工機学校の生徒のみならず、畑違いともいえる他の学部の生徒も動員されることとなる。普通、このような官民や他の学部を集めると問題が起こりそうなものだが、「信濃の完成が日本を救うこととなる」との思いがお互いに良い刺激となり、作業は順調に進んだという。
工事の単略化のため、兵装や艦内装備は最小限にとどめ、艦内の水密試験も最低限(一説では省略)しか行われなかったとされる。
過労や事故により10名以上の死者を出しながら10月5日工事終了。そして、午前8時30分頃よりドックに注水する事となる。
不幸に見舞われた進水式
予定では、ドックに半注水し艦を浮揚、その段階で艦のバランス等を確認する事となっていたが、その作業中、突然ドックの扉船が外れ、外洋の海水がなだれ込むこととなった。これは扉船のおもりとしてバラストタンクへ海水を注水しなければならないのにそれを忘れるという人為的ミスであった。この事故でドック内が騒然となった中、信濃を固定するロープが切れ、奔流にのって前後に動き、左舷をこすりつけながら艦首のバルバスバウがドックの壁面に激突するという信じられない事態が発生した。調査の結果、ここでも実に単純なミスが発覚した。
本来、信濃のバラストタンクへも海水を入れなければならないのに、これが全く注水されていないという人為的ミスであった。作業ミスと言ってしまえばそれまでだが、無謀ともいえる工期短縮が招いた結果ともいえる。
ともあれ、このアクシデントにより竣工は一月遅れ、11月19日となってしまい、その間に海軍最後の艦隊戦であるレイテ沖海戦(捷一号作戦)が起こり、連合艦隊は名実共に壊滅することとなる。
完成後
公試中に局地戦闘機紫電改を改造した艦上型が着艦実験行われ、成功を収めている。それらの結果から、紫電改や彩雲・流星などの洋上基地として活用を期待され、11月28日、残された艤装や兵装の搭載の実施と、横須賀地区の空襲から逃れるため、呉海軍工廠へ回航すべく出港する事となる(なお、当日の六曜は仏滅である)。
その間も信濃の内部では建造工事が続けられており、高射砲、機銃はほとんど搭載されておらず、機関も12基ある缶の内8基しか稼働していなかったという。航空機は特攻機の「桜花」を搭載、輸送していた。当日は天候が悪く。また、沿岸部を航行する危険性を考慮し「夜明け前に出航外洋航海」の進路を取った。護衛の駆逐艦は第17駆逐隊の磯風、浜風、雪風の三隻(この戦隊は、捷一号作戦からの帰投時、浦風とともに日本への回航時に戦艦金剛を護衛していたが、警戒航行の之字運動をしていたにもかかわらず金剛と浦風を潜水艦に沈められている)。既に海軍艦艇の掃海能力より敵艦の静寂能力を上回る状態であり、また、艦乗員の練度不足により見張りも完全とはいえなかった。
11月29日午前3時13分、浜名湖南方176kmにて米ガトー級潜水艦アーチャーフィッシュ(USS Archerfish, SS-311) の雷撃を受け損傷する。さらに未だ工事中だったためにケーブル類で防水ハッチを閉められず、錬度不足のため右舷半舷注水も怠り(注排水弁の位置の構造上欠陥により艦の傾斜で注水できなかった説あり)、同日午前10時57分(55分説あり)、潮岬沖南東48kmの地点で転覆し沈没、信濃の短い生涯は幕を閉じた。これは世界の海軍史上最も短い艦歴である。
突貫工事による影響は各所にのぼり、ねじ山が根元まで切られていないボルトや2cmも隙間の空く防水ハッチなど、竣工とは名ばかりの未完成艦であり、艦長の判断以前に沈没が確定されていたと言ってよい惨状だった。更に、艦搭乗員も内部に精通したものが皆無で満足に応急処置を行えない状況であり。また、アーチャーフィッシュは、空母のような重心の高い艦を横転させるため、喫水付近を雷撃できるように自艦を浅い深度に設定しており、これも信濃沈没の原因と言える。
歴代艦長
- 阿部俊雄少将(一階級特進)
参考文献
- 安藤日出男『幻の空母信濃』 朝日ソノラマ文庫航空戦史シリーズ、1987年、ISBN 425717093X
- 豊田穣『空母「信濃」の生涯-巨大空母悲劇の終焉』 光人社NF文庫、2000年、ISBN 4769822758
- J.F.エンライト & J.W.ライアン 著・高城肇 訳『信濃! -日本秘密空母の沈没』 光人社NF文庫、1994年、ISBN 4769820399
- 伊藤正徳『連合艦隊の最後』文芸春秋新社、1956年