角福戦争
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角福戦争(かくふくせんそう)は田中角栄と福田赳夫による日本政治史上の激しい政争・権力闘争を戦争に例えて呼んだもの。1970年ごろから田中が倒れる1985年まで続いた。
過去戦後政治史において、吉田茂と鳩山一郎、池田勇人と佐藤栄作の政争はあったが、「戦争」とまで形容されることはなかった。田中と福田の抗争の激しさは、お互いの(及びそれぞれの支持層の)出身階層の相違による、ある意味で擬似階級闘争の様相を呈していたことの表れともいえよう。
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[編集] 第一次角福戦争
- ポスト佐藤栄作総裁選(1970~1972)田中VS福田
池田総理から禅譲されて長期安定政権を築いた佐藤も3期6年を経た頃になると兄岸信介の派閥を引き継いでいた福田赳夫を後継に考え始める。しかし長期政権のうちに要職を歴任した自派閥代貸しである田中角栄も総裁を狙える力をつけていた。今禅譲されれば福田に総裁の地位が渡ることを恐れた田中は副総裁の川島正次郎と4選ムードを盛り上げていく。結局思惑通りに佐藤は4選を果たしその間に田中は多数派工作を着々と進めてゆく。福田側は佐藤の田中への説得と禅譲を頼みにしたが幾度のチャンスを逃し田中が佐藤派の3分の2を握り力をつけてゆくと結局どちらも行われることはなかった。総裁選直前に佐藤は田中と福田を前に2位になったものが1位に投票することを要請し2人もこれを受けたが後に反故になった。 総裁選には田中、福田、大平、三木の4人が出馬し各々156、150、101、69ずつの票をえて田中と福田の決選投票になり田中282、福田190で田中が佐藤の後継となった。出馬しなかった中曽根康弘にはこの時7億円の資金が田中から流れたと言われている。
- 角福休戦期
[編集] 第二次角福戦争 (第一次大福戦争)
- ポスト福田赳夫総裁選(1978)大平正芳VS福田
1976年大福連携で念願の総理の座に就いた福田は総裁任期の2年が迫ると再選への意欲を見せ始める。一方の大平側は2年間で総理を譲るという大福密約の履行を求めた。結果として両者は決裂し総理総裁の座は1978年自民党総裁予備選挙で争われることになった。ロッキード事件と大福提携で雌伏を余儀なくされていた田中派は全面的に大平の支援に回り、当時党全国組織委員長を務めていた竹下登が門外不出のはずの党員党友名簿を持ち出し、それを基に後藤田正晴が田中派の議員秘書を総動員して戸別訪問や電話攻勢等をするローラー作戦を展開。当初の下馬評では現職の福田が圧倒的に有利とされていたこともあり「負けた候補は国会議員による本選挙を辞退すべきだ」と発言していたが、予備選挙の結果は大平正芳(784)福田赴夫 (638)と大差をつけられて敗れた。派内ではなおも森喜朗、小泉純一郎などが本選挙に打って出るべきと進めるが「天の声にも変な声がある」「敗軍の将、兵を語らず」との台詞を残して本選挙を辞退した。同年12月7日大平内閣が成立し福田は反主流派に転落した。
[編集] 第三次角福戦争 (第二次大福戦争)
- 田中支配の確立
- 鈴木内閣(1980~1982)
1979年10月に行われた衆議院選挙で自民党は現有議席を下回る248議席しか獲得できなかった。前回総選挙で議席を減らした三木内閣は退陣しているため大平総裁に対する責任論が噴出した。詳しくは四十日抗争を参照。結果くすぶった火種は消えることなく翌1980年、社会党が提出した内閣不信任案に反主流派がのったために成立してしまう。大平内閣は衆議院解散(ハプニング解散)を選択し、史上初の衆参同日選挙が行われることになった。選挙の結果、自民党は大勝したが、大平は選挙のさなかに急死してしまう。総理後継には大平派の鈴木善幸が「和の政治」をスローガンに掲げて就任した。本籍地田中派現住所大平派ともいわれた善幸の総理就任で田中の支配体制は強まりキングメーカーとして政界に大きな影響力を持つことになった。
- 福田、最後の反撃
- ポスト鈴木善幸総裁選(1982) 田中・中曽根VS福田
1982年10月、再選確実と見られていた鈴木は退陣を表明(中曽根康弘は鈴木に退陣を匂わされ準備をしていたという)。総裁選を1週間中断して行われた話し合いによる調整はうまくいかず結局後継総裁は総裁選で行われることになった(このときの話し合いで田村元が持ち込んだ総理総裁分離が浮上し中曽根総理、福田総裁案を福田は呑んだといわれているが、田中の意を受けた中曽根は蹴った)。中曽根康弘、河本敏夫、安倍晋太郎、中川一郎の4氏が立候補し、田中、鈴木、中曽根3派の支持と党員の過半数の支持を受けた中曽根総理が誕生した。
- 二階堂擁立構想 (1984) 田中・中曽根VS福田・鈴木・三木
田中曽根内閣と呼ばれるほどの偏重人事に鈴木派は次第に不満を募らせていきついには福田、三木そして野党までも巻き込んで田中派会長の二階堂進を担ぐ倒閣運動に発展していく。詳しくは二階堂擁立構想を参照。結果は失敗したが党長老たちの力は弱まり急速な世代交代が進行しその後の田中支配の終焉の遠因になる。田中が倒れたことによって対立軸を失った福田、三木も次第に影響力を失い田中、福田派それぞれの後継領袖である竹下登と安倍晋太郎が盟友関係にあったことに加え厭戦気分も手伝って協調路線に入っていった。
[編集] 21世紀の角福戦争
安竹協調路線はそれぞれの領袖が代替わりする中でも続き1998年竹下元首相の在職40年パーティでも当時の森喜朗幹事長が、「願わくはもうひとり首相を育ててほしい」と自らを売り込むほどだったが2001年に小泉純一郎が総理になると、自らが平成研究会(旧経世会)の支援を受けずに就任した初めての自民党の総理と公言するとおり反経世会姿勢を進め、反発する野中広務らを抵抗勢力と位置づけ対立し、当事者を変えた遺恨試合として報道された。
また、小泉内閣の外交問題において田中真紀子外務大臣(田中角栄の長女)と福田康夫内閣官房長官(福田赳夫の長男)が対立していたことを角福戦争と形容することがあるが、双方とも派閥の領袖ではないことから別の次元である。
[編集] 関連項目
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