岸信介
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生年月日 | 1896年(明治29年)11月13日 |
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出生地 | 出生地:山口県吉敷郡山口町(現・山口市) 本籍地:山口県熊毛郡田布施町 |
出身校 | 東京帝国大学法学部法律学科卒業 |
学位・資格 | 正二位 大勲位菊花大綬章 法学士 |
前職 | 衆議院議員 自由民主党幹事長 外務大臣 自由民主党総裁 |
世襲の有無 | 家族・親族参照 |
在任期間 | 1957年2月25日 - 1960年7月19日 |
選挙区 | 旧山口2区 |
当選回数 | 衆10回 |
所属(推薦)党派 | 自由民主党 |
没年月日 | 1987年(昭和62年)8月7日 |
岸 信介(きし のぶすけ、1896年(明治29年)11月13日 - 1987年(昭和62年)8月7日)は、日本の農商務官僚、政治家。第56、57代内閣総理大臣。正二位大勲位。第61代~第63代内閣総理大臣・佐藤栄作は弟。安倍晋三は外孫に当たる。
戦後にA級戦犯容疑で逮捕されたが不起訴となり、政界に復帰した。総理在任中に日米安全保障条約への反対運動で総辞職したが、政界引退後も 自民党内に影響力を持ち続け、「昭和の妖怪」[1] の異名を持つ。政治姿勢は「タカ派」と評されることが多い一方、戦前には共産主義者と非難されることもあった。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 青年期まで
山口県吉敷郡山口町(現・山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第五児(次男)として生まれる(本籍地は田布施町)。3歳のころ一家は田布施に帰郷し造り酒屋を営む。中学三年の時婿養子だった父の実家・岸家の養子となった。
旧制岡山中学、旧制山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)、第一高等学校 (旧制)を経て、1920年7月に東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法学)を卒業。我妻栄、三輪寿壮や平岡梓(作家・三島由紀夫の父)たちとは同期だった。
高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄とは常に成績を争った。東大に進むと1学年の成績は我妻と岸の2人が同点同分の89点1分の成績をあげ1番の座を分かち合った。2学年のなかばになってからは点数制が廃止され優良可の表示に変えられたためそれからあとの2人の成績の優劣は点数制のように明瞭にわからなかったがほぼ同じであろうと思われている。他の高校からやってきた者たちは2人の俊英ぶりに驚かされたという。憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めるが岸は官界へ進み、農商務省を選択した。1930年代初め、ファシストの実力者北一輝の門下生となる。
[編集] 日本の傀儡・満州国時代
- 1936年(昭和11年)10月には、事前に商工省時代の部下である椎名悦三郎を送り込んで準備させておいた後、満州国国務院実業部総務司長に就任。満州「産業開発5カ年計画」を実施。満州国時代には、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介など、軍部・財界の知己を得た。半ば公然と右翼やヤクザの助けを借りていた。文官として公式には満州第二の高官であったが、「満州国の統治者」と呼ばれることもあった。
[編集] 商工次官就任
1939年(昭和14年)10月、商工次官に就任する。1940年7月に発足した第2次近衛内閣に商工大臣として入閣を進められたが、自体。商工大臣には阪急電鉄オーナーである小林一三が就任する。しかし、統制経済を志向する岸と民主導の経済を志向する小林は対立し、岸はしばしば財界から共産主義者と同一視され批判された。企画院事件によって企画院の官僚数名が共産主義者として逮捕された影響から、統制経済論の立場をとっていた彼も辞職し、一時的に身を引くことになる。
[編集] 東條政権入閣
1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に、商工大臣として入閣し、東條内閣にいる間は太平洋戦争中の戦時経済の元締となった。1942年(昭和17年)のいわゆる「翼賛選挙」で当選し、政治家としての一歩を踏み出す。1943年(昭和18年)、日本軍劣勢への対応策として商工省が廃止され、軍需省へと改組された。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格とも思われる処遇は、東條との関係に溝を生じさせた。
1944年(昭和19年)7月22日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となる。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸内府と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の打倒と、戦争終結内閣実現の工作が密かに進められた。
同年7月13日には、難局打開のため、内閣改造の意向を示した東條に対して、木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は要求を受け入れ、内閣改造に着手。しかし、既に岡田啓介と気脈を通じていた現職閣僚の岸が辞任を拒否し、内閣総辞職を主張する。東條の側近である四方諒二(しかた・りょうじ)東京憲兵隊長が岸の自宅に押しかけ、「叩き斬ってやる!!」と恫喝するも岸は折れず、更に申し合わせていた重臣らが入閣を拒否。やむなく東條は、7月18日内閣総辞職を決意した。
1945年3月11日、翼賛政治会から替わった護国同志会を率いる。
[編集] 戦犯容疑者から復権まで
1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終結すると、故郷・山口市に帰っていた所をA級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に笹川良一、児玉誉士夫らと共に収監される。しかし、冷戦の激化に伴い、アメリカが対日政策を大きく転換。戦後の日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、ファシストであってもアメリカの反共に協力的な人物を復権させたため(逆コース)、岸は戦犯不起訴となり、東條ら7名の処刑の翌日の1948年12月23日に釈放されるが、「公職追放」に遭う。収監中、佐藤栄作に手紙で「軍人は情けないものでいつ殺されるか震え上がっているが、私は夢精ばかりして困る。自分で下着を洗うのが情けない」と書き送り、後年も80歳を過ぎてなお愛人を囲い、朝からステーキを食するという「昭和の妖怪」らしいエピソードを残している。
1952年、公職追放が解除され、1953年(昭和28年)に「自由党」公認候補として衆議院選挙に当選。主な右翼と同盟を結び抜け目なく中央舞台へ進んだ。1954年(昭和29年)吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発し、自由党を除名される。 1954年11月に鳩山一郎と共に「対米自立、自主憲法制定」などを掲げて、「日本民主党」を結成し、幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955年(昭和30年)に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任する。同年には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同し、これによっていわゆる「55年体制」が到来する。
1956年(昭和31年)4月5日 自民党総裁選に立候補するが、鳩山一郎に敗れる(岸4票、 鳩山394票)。
[編集] 岸内閣誕生
1956年(昭和31年)12月、12月14日 自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れる(岸251票、 石橋258票) が、外務大臣として石橋湛山内閣に入閣する。2ヶ月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務める。巣鴨プリズンに一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名され、3月21日 第4回党大会・総裁公選で第3代自由民主党総裁に選出される。石橋内閣が総辞職すると、全閣僚留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。
1958年(昭和33年)4月25日に衆議院を解散。同年5月22日の第28回総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、同年6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第二次岸内閣が発足する。
1958年当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改定案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。又、日本教職員組合(日教組)との政治闘争において、日教組を封じ込める策として、教職員への勤務評定の導入を強行した。すると、これに反発する教職員により、いわゆる「勤評闘争」が起こった。
この他には、最低賃金制や国民年金制度といった社会保障制度の導入も実施した。
[編集] 六十年安保騒動
岸の総理大臣在任中の最大の事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意する。
しかし、帰国後の新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどる。警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダー尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに三つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼とヤクザで構成された全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会である。Far Eastern Economic Review誌によると「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプター、セスナ機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた。」と書かれている。
連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ハガティ新聞係秘書(大統領報道官)が羽田で群衆に包囲されてヘリコプターで救出され避難する騒ぎに。6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学学生樺美智子の死亡事件が発生する。こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである」(サイレント・マジョリティ発言)と沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋の三人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワー米大統領の訪日を中止せざるを得ない状況となった。
1960年(昭和35年)6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳はこれを拒否。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准、天皇が調印した。「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の1960年6月23日、混乱の責任をとる形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。
総理大臣在任期間は、歴代首相中8位となる3年を超える(2004年4月1日現在)。
[編集] 日韓国交回復
内閣を辞職した岸であったが、その後も政界に強い影響力を持ち、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国とかかわりをもったことがあり、岸信介・椎名悦三郎・瀬島隆三・笹川良一・児玉誉士夫らとは満州人脈が形成される。 日韓国交回復後、韓国には経済協力のために日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。岸・椎名・瀬島らは日韓協力委員会を作り、韓国利権に走った。 また、彼らは日韓の反共政策を支持した統一協会にも好意的で、統一協会の教祖文鮮明が国際勝共連合を結成することにも協力している。 野党である社会党は北朝鮮を支持しており、日本の二大政党が共に朝鮮半島と癒着関係を持つに至った。
[編集] 晩年
総理辞任後も政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い、いわゆる「角福戦争」が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。 1972年7月、第3次佐藤内閣改造内閣が倒れた後、憲法改正を目指し密かに政権復帰を狙う。[2]自民党総裁選挙で福田赳夫が田中角栄に完敗したことで、大変落胆する。[3]
1979年(昭和54)10月7日の衆議院解散を機に、派閥を福田赳夫に譲り、政界を引退。晩年は、御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、自主憲法制定などに関し、積極的な発言を続けた。1979年(昭和54)、国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価され、日本人初の国連平和賞を受賞。[4]
[編集] 略年譜
- 1896年11月13日:山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)に生れる。
- 1919年11月:岸良子と結婚
- 1920年7月:東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。外国貿易に関する事項の調査を嘱託。9月:外国貿易に関する事項の調査嘱託を解かれ任農商務属、商務局勤務
- 1921年5月:任農商務事務官、叙高等官七等商務局勤務 監理課勤務 叙従七位 11月:長男信和生る
- 1922年7月:兼任農商務参事官、叙高等官七等 農商務事務官として山林局勤務 大臣官房文書課勤務
- 1923年5月:鉱山局勤務 陞叙高等官六等 10月:叙正七位
- 1924年12月:水産局勤務
- 1925年3月:大臣官房文書課兼務を免ぜらる 農林事務官 4月:任特許局事務官兼商工書記官 叙高等官六等 大臣官房文書課勤務(兼) 7月:叙高等官五等 8月:叙従六位
- 1926年2月:商務局兼務 4月:欧米各国へ出張 5月:米国に於ける製鉄事業の企業、組織及印度に於ける製鉄事業の情況並英本国との斯業関係調査を嘱託
- 1927年4月:帰朝 7月:陞叙高等官四等 9月:叙正六位
- 1928年6月:長女洋子生る 11月:昭和三年勅令第百八十八号旨に依り大礼記念章を授与さる
- 1929年4月:木戸大臣官房文書課長海外出張中代理 商工審議会幹事被仰付 8月:陞叙高等官三等 9月:叙従五位
- 1930年5月:工務局兼務 欧州各国へ出張 6月:任臨時産業合理局事務官兼特許局事務官兼商工書記官 叙高等官三等 臨時産業合理局第一部勤務 12月:臨時産業合理局第二部兼務
- 1932年1月:任商工書記官兼臨時産業合理局事務官叙高等官三等 工務局工政課長 臨時産業合理局第一部勤務
- 1933年2月:兼任外務書記官(~1934年3月) 通商局勤務 12月:大臣官房文書課長 工務局工政課長兼務
- 1934年1月:大臣官房統計課長兼務 統計主任 工務局工務課長兼務 4月:叙勲五等授瑞宝章 従軍記章を授与さる 9月:叙正五位
- 1935年1月:対満事務局事務官被仰付 3月:第六十七回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付 4月:商工省工務局長心得 臨時産業合理局第二部長 叙高等官二等 臨時産業合理局第二部長 任臨時産業合理局事務官兼商工省工務局長
- 1936年4月:任商工省工務局長兼臨時産業合理局事務官 臨時産業合理局第二部長 10月:満州重工、実業部次長として渡満
- 1937年7月:産業部次長 満州開発五ヶ年計画の立案など経済政策に辣腕
- 1939年10月:商工省へ復帰、任商工次官 叙高等官二等
- 1941年10月:東条内閣で商工大臣
- 1942年4月:衆議院議員(~1943年10月)
- 1943年10月:任国務大臣 商工次官兼任 叙高等官一等 11月:国務相 軍需次官(~1944年7月)
- 1945年9月:戦犯容疑者として、巣鴨拘置所入所(~1948年12月)
- 1950年3月:東洋パルプ会長(~1953年1月)
- 1953年3月:自由党入党 4月:衆議院議員(~1979年9月) 12月:憲法調査会会長
- 1954年11月:自由党除名さる 日本民主党幹事長
- 1955年11月:自由民主党幹事長
- 1956年12月:石橋内閣で外務大臣(~1957年2月)
- 1957年2月:内閣総理大臣(~1960年7月) 3月:自由民主党大会開催 総裁に当選
- 1979年10月:政界引退、日本人初の国連平和賞受賞。
- 1987年8月7日:死去。享年90。墓所は山口県田布施町及び静岡県御殿場市の富士霊園。
[編集] 栄典
- 1967年4月29日:勲一等旭日桐花大綬章
- 1987年8月7日:大勲位菊花大綬章
[編集] 家族・親族
- 曾祖父:佐藤信寛(長州藩士、島根県令)
- 祖父:信彦(漢学者、県会議員)
- 祖母:みね(徳山藩士・国広治左衛門娘)
- 実父:秀助(山口県庁官吏、酒造業 田布施・岸要蔵三男)
- 兄:市郎(軍人・海軍中将)
- 弟:栄作(政治家・首相)
- 養父:岸信政(山口県士族)
- 従妹・妻:良子
- 長男:信和(妻・仲子は山口県議会議長を務めた田辺護の二女。田辺は鮎川義介の従兄に当たる)
- 長女:洋子(山口県、政治家安倍晋太郎に嫁する)
- 外孫:晋三(政治家・首相)、信夫(政治家、長男・信和の養子となって岸家を継いでいる)
- 遠い親戚:吉田茂(政治家・首相)、松岡洋右(満州鉄道総裁・外務大臣)
[編集] 系譜
佐藤信彦━━茂世 ┏市郎 ┣━━╋信介━(岸信政へ養子)━┳信和 岸要蔵━┳秀助 ┗栄作 ┗洋子 ┗信政━良子 ┣━━┳寛信 (信介夫人) 安倍寛━━晋太郎 ┣晋三 ┗信夫(岸信和へ養子)
[編集] エピソード
- 実家の佐藤家について、自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、ことに曽祖父・信寛の威光がまだ輝いておったのである。また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである。」「佐藤の子供だというので、自然に一目も二目も置いて付き合われたので、好い気になって威張っていた傾きもあった。」と述べている。なお父の実家・岸家もまた田布施の士族であるがその先祖は「ガン」と称する朝鮮半島からの帰化人だったとする説がある。
- 子供たちの教育はすべて母・茂世の手で行われスパルタ式の教育で信介ら兄弟が泣いたりして家へ帰ろうものなら叱りつけて家の中に入れなかったという。又、佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も「ウチは県令と士族の家柄ですからね!」とガンとして対外的な意地を張り通したそうだ。
- 戦後政治史上において、吉田茂とは鋭く対立した岸だが、安保改定に当たっては、同条約締結時首相の任にあった吉田を敬意を表し、神奈川県の大磯町の別荘に隠棲していた吉田の元に度々足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたと言う(原2005)。
- 多くの異名を持った事でも知られる。旧満州国での官僚時代、軍部・財界の実力者であった東條英機、星野直樹、鮎川義介、松岡洋右らと共に、満州の「2キ3スケ」、長州出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。総理辞任後の晩年は、依然として政財界に隠然たる影響力を有した事から、「昭和の妖怪」(元々は西園寺公望の綽名)などと称された。
- 晩年は福田派のプリンスとなっていた娘婿の安倍晋太郎を総理にすることに執念を燃やし、「岸の安倍狂い」と言われた。
- 大変な絶倫であった。早坂茂三は当時80代後半になっていた岸に「俺も遂に女がだめになった」と聞かされ度肝を抜かれたという。
- 1952年の政界復帰の際に右派社会党への入党を打診したが拒否され、自由党から出馬している。
- 2006年10月5日、岸の外孫に当たる安倍晋三首相は衆院予算委員会で、菅直人元厚相に東条内閣の商工相だった岸元首相が太平洋戦争開戦の詔書に署名したことへの認識を問われ「指導者には祖父を含め大きな責任があった。政治は結果責任だから当然、判断は間違っていた」と述べた。ただし、明らかに岸一人の反対で止められるはずもなく署名したのは形式的なものであるため「菅は閣僚経験がありながら閣議を知らない」と批判されることとなる。
[編集] 勝共連合・統一教会との関係
- 岸がかつて住んでいた東京都渋谷区南平台(地区は松涛)の私邸の隣に統一教会(世界基督教統一神霊協会)があり、統一教会との関係が深かった笹川良一の紹介で、関わりを持ったとみられる。日本での「国際勝共連合」設立の際にも両者は協力関係にあった。
- 1970年4月9日、岸は統一教会本部で東京地区の信者約四百名に対して国際情勢などを語り、教会員を激励したこともある。[1]
- 1974年5月7日に東京の帝国ホテルで開かれた、統一教会の教祖文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」の名誉実行委員長は岸であった。この時参加していた福田赳夫大蔵大臣が「アジアの偉大な指導者」と文鮮明を賛美し、韓国式の抱擁を交わしたことはよく知られる。
- 1984年にアメリカが文鮮明を脱税の罪で投獄した際に岸は、「宗教の自由」を侵害した不当裁判とする意見書をアメリカ大統領に提出した。[2]また、文鮮明主催の「世界言論人会議」でスピーチしたこともあった。[3]
- 2006年5月13日、統一教会系列の団体、「天宙平和連合(UPF)」の集会(合同結婚式も行われたとも言われる)で安倍晋三官房長官からの祝電を読み上げる際に、司会者は「岸信介元総理大臣のお孫さんでらっしゃり」と岸信介時代からの親密振りをアピールして紹介していた。
- 台湾蒋介石とは勝共連合の設立を通じて親密であり、日本に亡命してきた台湾独立運動(民主化運動)家の強制送還に関与、蒋介石死後も日本における蒋介石総統遺徳顕彰会の中心として活躍した。
[編集] 資料館・旧宅
- 岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室
- 岸信介、佐藤栄作兄弟の出身地、田布施町郷土館内に設置。国連平和賞、ノーベル平和賞などの、遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している。
- 田布施町郷土館
- 所在地:〒742-1511 山口県熊毛郡田布施町大字下田布施875番地6
- 電話:0820(52)2620
- FAX:0820(52)4904(田布施町教育委員会)
- http://www4.ocn.ne.jp/~tabuse/sisetsu/gaiyou1-1.html
- 御殿場の旧岸信介邸
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- 所在地:静岡県御殿場市東山1082-1
- 岸が晩年の17年間を過ごした邸宅は、2003年(平成15年)に長女によって御殿場市へ建物が寄贈され、土地は地元財産区が購入した。現在同市では、2年後の公開を目標に文化施設「東山かくれ家の森(仮称)」として整備を進めている。なお、御殿場市の市制50周年を記念して、2005年(平成17年)10月5日から10月10日まで一般公開された。
[編集] 文献
[編集] 著書
- 『現代法学全集(23) 保険業法・取引所法・税法・担保附社債信託法』(南正樹・星野直樹・栗栖赳夫共著、日本評論社、1928年)
- 『日本戦時経済の進む途』(研進社、1942年)
- 『岸信介の回想』(矢次一夫、伊藤隆との鼎談、文藝春秋、1981年)
- 『二十世紀のリーダーたち』(サンケイ出版、1982年)
- 『岸信介回顧録――保守合同と安保改定』(廣済堂出版、1983年、ISBN 433150171X)
- 『我が青春――生い立ちの記・思い出の記』(廣済堂出版、1983年、ISBN 4331501728)
- 『岸信介証言録』(原彬久編、毎日新聞社、2003年、ISBN 4620316229)
[編集] 引用・参考文献
- 吉本重義 『岸信介傳』 東洋書館、1957年
- 原彬久 『岸信介――権勢の政治家』 岩波書店[岩波新書]、1995年
- 副島隆彦 『日本の秘密』(弓立社、1999年、ISBN 4772703616)
- 秦郁彦 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会 2002年 180-181貢
- 原彬久 『朝日新聞』 2005年12月15日(夕刊、14面)「ポスト小泉の麻生氏と安倍氏、祖父が争った国のかたち―闘い方が時代を占う指標に」
[編集] 関連文献
- 伊藤整「岸信介氏における人間の研究」『中央公論』1960年8月号
- 岩川隆『巨魁――岸信介研究』(ダイヤモンド社 1977年)
- 安倍洋子「父岸信介の素顔」『中央公論』1987年10月号
- 中村長芳「岸信介に仕えた35年」『文藝春秋』1987年10月号
- 細川隆一郎『日本宰相列伝(20)岸信介』(時事通信社、1986年)
- 岩見隆夫『昭和の妖怪 岸信介』(朝日ソノラマ、1994年)
- 北岡伸一「岸信介」渡辺昭夫編『戦後日本の宰相たち』(中央公論社、1995年)
- 塩田潮『岸信介』(講談社、1996年)
- 中村隆英・宮崎正康編『岸信介政権と高度経済成長』(東洋経済新報社、2003年)
- 城下賢一「岸信介と保守合同(1・2)」『法学論叢』157巻3・5号(2005年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部へのリンク
[編集] 註
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第55代 石橋湛山 |
第56・57代 1957-1960 |
第58代 池田勇人 |
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