貴族院 (日本)
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貴族院(きぞくいん、英訳:House of Peers)は、かつて大日本帝国憲法下で設置された立法機関。貴族院の長は貴族院議長である。
衆議院とともに帝国議会を構成し、衆議院とは同格の関係にあった。但し、衆議院には憲法上、予算先議権が認められていた。
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[編集] 構成
「貴族院」は貴族院令の規定により、以下の議員から構成された。
- 皇族議員
- 華族議員
- 華族から選出される。なお、朝鮮貴族は朝鮮貴族令第5条により華族と同一の礼遇を享けるものとされたが、華族議員となる資格はなく、勅任議員として貴族院議員に列した。
- 公爵議員・侯爵議員
- 伯爵議員・子爵議員・男爵議員
- 満25歳に達した伯子男爵のうちから互選で選ばれる。任期7年。
- 設立時は、伯子男爵議員の定数は、各爵位を有する者の総数の5分の1を超えない範囲とされた(第1回帝国議会において伯爵14名、子爵70名、男爵20名。第21回帝国議会において伯爵17名、子爵70名、男爵56名。)。
- 明治38年勅令第58号(1905年)により、伯子男爵議員を通して定数143名として、各爵位を有する者の総数に比例して配分することとなった
- 明治42年勅令第92号(1909年)により、伯爵17名、子爵70名、男爵63名とした。
- 大正7年勅令第22号(1918年)により、伯爵20名、子爵73名、男爵73名と増員した。
- 大正14年勅令第174号により、年齢が満30歳に引き上げられるとともに、伯爵18名、子爵66名、男爵66名の合計150名の定数がとなった。以降、貴族院廃止まで変更はない。
- 勅任議員
- 勅選議員:国家に勲労あり又は学識ある30歳以上の男子の中から、内閣の輔弼により天皇が任命。帝国議会創設時には61名が選出(元老院議官27名、各省官吏10名、民間人9名、帝国大学代表6名、宮中顧問官6名、内閣法制局3名)。定員は当初は華族議員の総数以下とされた(1925年にこの規定は廃止)が、1905年以後定員125人以内に固定される。終身。
- 帝国学士院会員議員:1925年に新設される。帝国学士院会員で30歳以上の男子から互選。定員4(帝国学士院は分野ごとに2部に分けられたため、各部ごとに2名ずつ選出された)。任期7年。
- 多額納税者議員:土地あるいは工業・商業につき多額の直接国税を納める30歳以上の者の中から互選。当初は各府県ごとに直接国税納付者15名より1名が互選されたが、北海道と沖縄県は対象外とされたので定員は45名であった。1918年に北海道・沖縄にも適用され、1925年には道府県ごとに多額納付者100名につき1名または200名につき2名に改められて定員は66人以内となる。1944年に樺太からも1名選出される事になり、定員67人以内と改められたが、日本の敗戦によって一度も選出が行われること無くこの規定は廃されて元の66名に戻された。任期7年。
- 朝鮮・台湾勅選議員:朝鮮または台湾に在住する満30歳以上の男子にして名望ある者より特に勅任する。10人以内。任期7年。1945年に創設されたが、1946年に朝鮮・台湾の統治権を失ったことにより廃止。朝鮮選出議員としては、伊東致昊、金田明、韓相龍、野田鐘憲伯爵(朝鮮貴族)、朴沢相駿、朴忠重陽及び李埼鎔子爵(朝鮮貴族)が、台湾選出議員としては、許丙、緑野竹二郎及び林献堂がいる。なお、朴泳孝侯爵(朝鮮貴族)と辜顕栄(台湾出身)は勅選議員として貴族院議員になった。
「貴族院」は解散がなく、終身議員(皇族議員と華族議員のうちの公爵議員と侯爵議員、勅選議員)以外も7年の任期を有し、改選も互選によって行われた。歳費は議院法に定められ、それぞれ議長7500円、副議長4500円、議員3000円(いずれも1920年の法改正から1947年の法廃止まで。衆議院も同額)であった。
[編集] 歴史
保守的な構成であることから当初から貴族院は衆議院の政党勢力と対抗することを意図して作られたことが伺われる。戦前においても、婦人参政権・労働組合容認・帝国大学増設といった進歩的法案はすでに議論され、実際に衆議院では可決されたものの、貴族院では否決の憂き目に会っている。大正デモクラシーの時代に貴族院に対する改革・廃止論議が起こり、加藤高明内閣は若干の改正を行ったが、貴族院の基本的権限には手をつけられなかった。戦後に至り、日本国憲法の審議にも参加。1947年、日本国憲法により貴族院は廃止され、その議場を新設の参議院に譲った。
1890年第1回通常会から、1946年の第92回通常会まで、議員総数は250名から400名程度で推移し、第92議会停会当時の議員総数は373名であった。
[編集] 院内会派
貴族院は、衆議院における政党政治の防波堤となり、国権主義の保持に寄与するという建前上、院内に政党を置くことはなく、政党に参加した議員は不文律として貴族院議員を辞職することになっていた。ただし議会活動のうえでの親睦や情報交換を目的とする院内会派は設置されており、大正末年から昭和初期にかけての政党政治の爛熟期には、これらの会派の一部が衆議院における政党と結び、政党色を強めることもあった。もっとも貴族院議員の性質上再選を目指す必要がない議員が多く、大半の場合、院内会派の拘束力は弱かった。具体的には、大半の会派において不偏不党と「一人一党」主義を謳い、党議拘束を行わなかったため、衆議院における政党とはあきらかな差異が認められる(もっとも最大会派の研究会の会派拘束は厳格で政党の党議拘束以上の厳しさであったために、他会派や内部からの批判の対象となった)。貴族院の院内会派は大政翼賛会の結成後も貴族院廃止まで存続する。
また、公選となった参議院でも、貴族院からのスライド当選組などは不偏不党を謳った会派「緑風会」を組織した。初期は参議院の最大会派として影響力を持ったが、やがて所属議員は政党(大多数は自由民主党などの保守政党)に吸収されていった。
- 火曜会
- 公爵及び侯爵議員による会派。少数派ではあったが、終身議員のみで構成されており、強い影響力を持っていた。徳川家達(第4代議長)、近衛文麿(第5代議長)、徳川圀順(第7代議長)、徳川家正(第8代議長)などが所属。
- 研究会
- 1890年に子爵議員の互選団体である尚友会を中心に結成され、伯爵・子爵議員を多く擁し、長らく貴族院院内会派としては最大勢力を誇った。後には官僚出身の勅選議員も多く所属することとなる。松平頼寿(第6代議長)などが所属する。
- 三曜会
- 近衛篤麿第3代議長も所属する。
- 同和会
- 茶話会の後継会派で旧茶話会と無所属議員を中心として結成された。反研究会・反政友会色が近く、同成会とともに貴族院における民政党の別働隊として活動した。
- 1920年(大正9年)7月時点における各会派の人数
- 研究会143、公正会65、茶話会48、交友倶楽部44、同成会30、無所属67、合計397名。