金星根
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金 星根(キム・ソングン、1942年12月13日 - )は、京都府出身の、韓国プロ野球・SKワイバーンズの監督である。2006年、千葉ロッテマリーンズの1・2軍巡回コーチを歴任。
[編集] 人物
在日韓国人2世。京都府立桂高等学校を卒業後、韓国に渡る。東亜大学を中退した後、1960年代に韓国実業野球界の投手として活躍し、後に監督を務めた。当初は在日ということで母国・韓国でも反応が冷たかったという。しかし、1982年に韓国プロ野球が発足すると実業団時代の手腕を買われ、OBベアーズの投手コーチに就任。1984年には監督に就任した。以降、6球団で監督を務め、2006年まで監督通算866勝は韓国プロ野球史上歴代2位の記録である。
万年最下位チームだった太平洋ドルフィンス、サンバンウル・レイダースなどをプレーオフに引き上げ、2002年には不振に苦しんでいたソウル本拠の人気チームLGツインズを戦力の整ってない状況にもかかわらず、韓国シリーズにまで進出させるなど、Bクラスチームの建て直しについては右に出るものはないと言われる。
ただ、10数年の監督生活の間、通算勝利数は2位であるが、未だ韓国シリーズの優勝を経験していないことから、一般的には「土台作りから始めるべきである下位チーム向き」で、「優勝を狙う上位チーム向きではない」と評されてきた。そして、彼がいた時はチームが目を見張るような巻き返しを見せながら、彼が去った後は故障者続出でチームがBクラスに逆戻りするパターンを繰り返すことや、毎試合のごとく信頼できる特定の中継ぎ投手を軸に複数のリリーフのつぎ込む試合運びのため、勝利のために選手、特にピッチャーを酷使するという評価もある。また、きめ細やかなデータの活用とそれに合わせる采配を鬱陶しく思って「彼の野球は勝っても面白くない」と嫌がる人もある。
しかし、これらの評価は、好選手に恵まれず、いつもAクラス入り(つまり、プレイオフの進出)とはほど遠い弱小チームを担いで、素質の面からエリート選手と差のある無名の選手からありったけの能力を絞り込んで成績をあげる道しかなかったということを考えてから下すべきであるという意見も無視できない。
ポストシーズンでの失敗も、こういう状況の下で、親会社の全幅の支援を背に野球エリートたちを集めた強豪チームとの対戦の場合が多く、結局底力の差を克服できずに力尽くというパターンが多かったことは考えるべきである。
また、前述のような「彼の退団後、故障ですぐ引退した選手が多い」という批判にも、その故障した選手自らが「自分は本来期待されなかった(あるいは、期待を裏切りつづけ球団からほぼ諦めかけられていた)ので、他の指導者の下でならチャンスすらまともに与えられなく、すでに引退したかも知れない状態だったのに、彼のお陰で才能を開花できた」と彼に感謝を趣を示してることが多いという面も考慮するべきであろう。
そして、何よりも彼が去った後でもチームは、彼の赴任前までついていた負け犬根性を払拭して、最初から諦めることなく上位を目指して挑むメンタルを保つようになったことが彼の最大の功績と言える。
他の専門家をも唸らせる眼目と選手たちへの面倒見のよさから、赴任中の所属チームの選手たちとの信頼関係は非常に厚く、選手生命にも影響しかねない負傷を持ってる選手が自分を省みず彼のために試合に強行出場して結果を残したこともあるほど。そして前述のような理由で彼がチームを去った後でも彼を慕う選手は多い。だが、いつも任せられるチームが戦力の整っていない崩壊寸前のチームや財政的に苦しい弱小チームであったため、球団フロントとは戦力補強に大幅な支援をしつこく要求することで衝突が多く、いつもギクシャクしていた。これが彼がいつもBクラスチームの再建の手腕を振るって結果を残しながらも、契約満了の前に解任される主な原因であると言われる。
特に、2002年シーズン後は、前年6位のLGツインズをAクラスに引き上げ、準プレーオフ、プレーオフを勝ち抜いて、韓国シリーズでも巨大戦力を誇る三星ライオンズをも手こずらせる戦いぶりを見せながらも、新しく就任した球団社長が彼のスタイルである管理野球を嫌がっていた上に、自らと親交がある李廣煥前監督をチームに復帰させるため、理解しがたい理由をつけて彼を解任したことから、球団はファンの激しい批判の嵐に会った。彼の退団のあと、チーム成績は3年連続の6位と全く振るわず、2006年は球団史上初の最下位に転落したため、LGツインズのファンの中では今も彼の復帰を望む人が多いが、それは当分の間叶えられない夢になってしまった。
類稀なBクラスチームの再建の才能のため、フリーの時は、ほぼ毎年シーズンオフに不振に陥った下位チームの監督候補として囁かれる。2005年のオフには、「プレイオフ進出さえできればほぼ毎試合満員御礼が出来る」と言われながら最近低迷ぶりが目について観客動員に苦戦したロッテ・ジャイアンツや9度の優勝を誇りながら昔の面影を失いつつある伝統の名門、起亜タイガースの監督候補としてマスコミに取り上げられることもあった。
2005年には千葉ロッテマリーンズのチームコーディネーターに就任、日本の野球に適応できずに不振に苦しんでいた李承燁の担当コーチとして、彼の復活を影で支えた立役者になった。韓国時代から選手の小さなフォームの変化による技術的な問題点を見抜く能力には定評があり、李承燁のほかに、ロッテの1軍若手選手たちにもその能力を認められ、彼らにもワンポイントアドバイスを求められるようになった。2005年シーズンの後、ロッテ球団は、李承燁の残留を目論む一方、彼のこのような能力を高く評価して2006年には1・2軍巡回コーチに就任させ、韓国プロ野球出身指導者で初めて日本プロ野球の正式コーチになった人物となる。
長男の金延俊はSKワイバーンズの記録課長で、2006年のワールド・ベースボール・クラシック韓国ナショナルチームにも帯同していた。
2007年からSKワイバーンズの監督に就任する。SKは2006年6位に終わり、歴史が浅いためまだ韓国シリーズでの優勝経験がなく、低迷したチームを再建し韓国シリーズに進出できるかが注目される。