錦織淳
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錦織 淳(にしこおり あつし、1945年7月30日-)は日本の弁護士・政治家(元衆議院議員)。島根県出雲市(旧平田市)出身。
東京大学法学部卒業後、27歳で弁護士となる。その後、日本弁護士連合会常務理事などを歴任する。その間に水俣病などの公害訴訟などを手がける。1993年、第40回衆議院議員総選挙に無所属で島根全県区から出馬する。島根は故郷であるとともに政財官の癒着の中で大きな政治力を発揮した元首相竹下登の選挙区でもあった。途中で新党さきがけの公認を得て当選を果たす。さきがけで田中秀征と出会い、その影響を強く受ける。翌年村山内閣が成立すると、文字通りの1年生議員ながら首相補佐に任じられる。村山内閣が水俣病問題に取り組んだのは錦織の影響によるところが大きい。後に中海干拓計画の中止問題に尽力した。また、住宅金融債権管理機構の社長に中坊公平を推挙したのは錦織であると言われている。
ところが、1996年に新党さきがけが分裂してしまう。錦織はさきがけに残留したが、直後の第41回衆議院議員総選挙では小選挙区制のもとで竹下登と対決して落選してしまった。更に2年後の第18回参議院議員通常選挙で敗北したさきがけは事実上の解党となり、その直前に民主党の誘いを受けて同党に移籍した。その後第42回衆議院議員総選挙 では、引退した竹下の代わりに出馬した弟の竹下亘とぶつかった。戦況は互角であったが、投票日直前に竹下登が急死したため竹下亘への同情が集まり、またも敗れた。竹下の死とともに島根での戦いに終止符を打った錦織は、続いて第19回参議院議員通常選挙では比例区で出馬して落選してしまう。その後は諫早湾の干拓反対訴訟に関与していたが、再び政界復帰を目指して今度は選挙区を衆議院の東京17区に移したものの、TV番組への出演によって圧倒的な人気を誇る平沢勝栄(自由民主党)の前に2回連続での落選を余儀なくされた。
著書に「この日本はどうなる」(田中秀征との共著)、「死刑の遺伝子」(島田荘司との共著)などがある。