閔妃
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明成太皇后 閔氏 | |
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各種表記 | |
ハングル: | /명성황후 |
漢字: | /明成皇后 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
びんひ若しくは、びんぴ |
片仮名: (現地語読み仮名): |
ミンビ/ミョンソンファンフ |
ラテン文字転写: | Queen Min Empress Myeongseong |
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明成皇后(ミョンソン こう-ご、1851年10月19日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代皇帝・高宗の妃。日本語読みではミョンソン こう-ごう若しくはびんぴ。[1]尊号は孝慈元聖正化合天[2]、諡号は明成太皇后[3]なので、孝慈元聖正化合天明成太皇后となる。韓国では明成皇后、中国では明成皇后と呼ぶ。
目次 |
[編集] 明成皇后と興宣大院君の確執
閔致禄の娘で、15歳の時(1866年)に王の実父である興宣大院君(以下大院君)の夫人閔氏の推挙で王宮に入った。明成皇后が王妃に選ばれた理由は、それ以前の60年間に及ぶ外戚安東金氏による勢道政治による政治の壟断からの脱却を逃れる為に、外戚としての影響力の少ない人物を選んだからだと言われている。
しかしながら、その方策は裏目に出た。
閔妃が卓越した政治的手腕を持っていたと言うよりも、高宗が政治に関心を持たず酒色に関心が深い人物だった。 [4]閔妃は王室に嫁いでから数年もしないうちに王朝の政治に深く関与するようになった。そして、大院君と王太子冊立に絡む対立が深まると1873年大院君追放の指揮を裏で執り行い、高宗の父で摂政を務めていた大院君とその腹心の部下たちを王宮から追い出し、一族を高官に取り立て政治の実権を握った。大院君はその後京畿道楊州に隠居した。しかしながら、この追放謀議に対して明成皇后に敵愾心を感じた大院君は政局復帰、明成皇后追放の為の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にも成った。
大院君が失脚すると、閔妃は彼女の一族を積極的に重職に登用し、閔氏による勢道政治を行った。当初閔妃は開国政策をとり、日本と江華島条約を締結するなど積極的な開化政策を実施した。日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化も始まったが、従来の軍隊(旧式軍隊)は放置され、賃金未払いなどが発生し、旧式軍隊に対する不満が重なっていた。それと開化政策に不満を持つ大院君等の勢力が合わさり朝鮮の旧式軍隊が1882年閔妃暗殺をもくろんだ(壬午軍乱)。 その際、多くの明成皇后派要人や日本人が殺され、日本大使館が焼き討ちにされたが、事件を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱した。 この軍乱を指揮したとして、大院君は清に連行され天津に幽閉された。高宗の嘆願、朝貢も効果なく、幽閉は3年間続き、帰国したのは駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共であった。
これ以降、閔妃は開化政策から親清政策へと方向転換し、そのために今度は開化派(従来の両班政治から朝鮮の自主独立近代化を目指す勢力)の不満を呼びこんだ。また頻繁に呪術師を呼んだり、仏教寺院への寄付を増やしつづけたりといった王妃の節操を欠いた行動は単に行動だけでなく多額の費用を必要とし、王朝財政を圧迫し続けた。[5]
1884年の開化派の金玉均(1894年、閔妃の刺客、洪鐘宇により上海で暗殺)らの甲申政変により一時期政権を奪われるが、これも清軍の力を使って政権を取り戻し、開化派の政権は3日で崩壊した。
1885年になると、ロシアの南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親露政策もとりはじめる。1894年に東学党の乱(甲午農民戦争)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、日清戦争の原因と戦場の一つになった。日清戦争後、日清戦争の勝者である日本側の押す大院君派の勢力が強くなり、閔妃の勢力は力を失っていく。そのため明成皇后は、親露政策をさらに推し進めていき、7月6日にロシア軍の力を借りて権力の奪回に成功する。この一件後の反明成皇后派の不穏な動きを察し、反対派の武装解除等を行っていた。[6]
[編集] 明成皇后弑害事件(乙未事変)
これらの動きは閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895年10月8日、日本軍を中心に大院君を担ぎ出そうとした勢力により景福宮にて暗殺され、遺体も焼却された(乙未事変、韓国語ではウルミ、俗に「明成皇后 弑害事件」とも)。
朝鮮が親露に傾くことに危機感を持った公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられた。外交官が王族を殺害することに関与するという行為に、日本は国際的な非難を恐れ三浦を含む容疑者を召還し、裁判を行った。その結果、首謀と殺害に関して[7]証拠不十分で免訴、釈放された。)[8] また、後に与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も加わっていたとされたが、当日の木浦で釣りをしていたアリバイがあり広島地裁検事局は免訴とした。その他、捜査の過程で実行者として実名が挙げられた者に安達謙蔵、 小早川秀雄、 横瀬幸彦、 堀口九万一、 堺益太郎、 柴四郎、 鈴木順見、 岡本柳之介、 穂積寅九郎、 鈴木重元、 岡本柳之助、 杉村濬、 馬屋原務、 藤戸与三、 村井右宗、 馬来政輔、 萩原秀次郎、 国友重章、 菊地謙譲、 鈴木順見、 中村楯雄、 寺崎泰吉(別名 高橋源次)、 田中賢道、 堺益太郎、 横尾勇太郎、 藤勝顕、 家入嘉吉、 木協祐則、 平山岩彦らがいる。[要出典]
なお、朝鮮政府はこれとは別に李周会(自首)、朴銃、尹錫禹[9] 3人とその家族を三浦らの公判中の同年10月19日に犯人およびその家族として処刑としている。[10]
閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたとも言われるが、具体的には大院君への怨念ともいえる確執の政治姿勢で貫かれていた。これらの政策が逆に仇となり大院君に代表される反対派勢力による暗殺を呼び込むことになった。閔妃暗殺後、日本は朝鮮の保護国化政策を進めていくようになる。
実際の暗殺の真の首謀者、実行者は誰であったかについては、日韓外交資料、梅泉野録、アジア歴史資料センターによる公文書、ロシア参謀本部中佐の「朝鮮旅行記」による記述の検討がなされているが、真相はいまだに明確[11]ではない。 首謀に関しては、国立国会図書館憲政資料室 憲政史編纂会収集文書の整理番号 546 「朝鮮王妃事件関係資料」によれば、当時の日本政府による計画的な策謀でないことは判明している。加えて 殺害の実行犯に関しても様々な説はあるが、アジア歴史資料センターの往電第31号によると、殺害現場にいた純宗の言で『乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇、禹範善』となっているだけでなく、『禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ』と自ら犯人であることを漏らしている。この禹範善は(アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』)、純宗が放った刺客、魯允明と尹孝定によって暗殺されていた。[12] さらに閔妃暗殺の現場にいたと考えられる高宗は、露館播遷後、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙義淵(当時軍部大臣) 禹範善(訓練隊第二大隊長) 李斗璜(訓練隊第一大隊長[13]) 李軫鎬(親衛第二大隊長) 李範来(訓錬隊副隊長[14]) 権濚鎮(当時警務使)の6名の処刑を勅命で命じている。[15]従って、これで朝鮮人で閔妃暗殺事件で関連した全員が処刑、暗殺等で死亡または処刑命令を受けたこととなった。
[編集] 死後
なお、閔妃はその死後、日本國によって[要出典]皇后としての称号を剥奪され、平民に降格された。(高宗実録 巻33[16] ) 。大韓帝国成立後の1897年、高宗皇帝と重臣たちによって[要出典]「明成」の諡号を贈られた。
従って、当初は東九陵の崇陵でなく崇陵前に埋葬された。明成皇后の名をおくられてからは清涼里の洪陵に移され、さらには高宗没後は南楊州市の金谷銅に位置する洪陵に高宗と彼女の合葬陵として現在の洪陵[17]に移された。
[編集] 略伝と関連年表
明成皇后と関連の深い事項に関する年表を示す。
- 1851年 閔致禄の娘として生まれる
- 1863年
- 12月 25代朝鮮王哲宗が32歳で亡くなる。
- 高宗即位 11歳であったため父 李昰応は興宣大院君として摂政職となる
- 1866年 9月 王妃となる
- 1868年 高宗が宮女である李尚宮に長子「完和君」を生ませる
- 1871年 閔妃 男子出産 ただし数日で死亡
- 1873年
- 11月 高宗親政 大院君失脚(摂政の座を降りる)
- 閔氏が政権を取る。大院君系列の人々は追放・流刑・処刑等で追放。
- 閔氏一族の官吏30数名 高官に
- 12月 閔妃の宮殿に仕掛けられた爆弾が爆発
- 1874年
- 3月 男子「坧」出産(後の純宗)
- 長男「完和君」を世子とする大院君派と坧を世子としたい閔妃派で争い
- 11月 閔氏一族の最高実力者領議政 義兄 閔升鎬宅に爆弾 彼と母子が爆死
- 1875年
- 8月 李裕元を世子冊封使として清へ 王世子(世継ぎ)として認められる(帰国 翌年1月)
- 9月 江華島事件→日朝修好条規
- 11月 大院君の兄 李最応の家に火が放たれる事件
- 1876年
- 2月27日 日朝修好条規
- 1877年
- 高宗第5男子平吉誕生(1891年義和君に封じられる)
- 1880年 側室の李尚宮が急死 その子(高宗の長男)「完和君」も変死
- 1882年
- 1883年
- 当五銭を発行
- 1884年
- 1885年
- 1月9日 日朝 漢城条約(日本:井上馨、朝鮮:金弘集)
- 4月15日 巨文島事件
- 4月18日 日清 天津条約日本:伊藤博文、清:李鴻章)日清両軍の撤退
- 朝露密約. 日本 清に大院君の帰還要請。閔妃側 大院君帰国の通達に難色
- 10月3日 大院君 清から帰国(仁川)
- 1891年 玄洋社設立[19]
- 1892年 高宗29年春 大院君爆殺計画失敗[20]
- 1896年 閔妃政権 金玉均暗殺の目的で地運永を日本に送る[21]が同年6月22日に朝鮮に送還。
- 1894年
- 1895年
- 3月30日 日清休戦条約
- 4月17日 下関条約
- 5月4日 三国干渉受諾(閔妃 親露政策へ)
- 7月6日 閔妃、ロシア公使ウェバーとロシア軍の力を借りクーデターに成功 [6]
- 7月10日 閔妃に関する謀議の風説の報告[6]
- 朴泳孝は閔妃殺害計画を謀議したとされと京城を脱出、釜山経由で亡命
- 9月1日 三浦梧楼、朝鮮国駐箚公使として着任
- 10月7日 閔妃派政権 訓練隊の解散と武装解除を通告
- 10月8日 閔妃暗殺される(乙未事変)[22]
- 10月10日 大院君の提言で 身分を剥奪され平民となる[16]
- 10月11日 王太子上訴で廃庶人閔氏に嬪を与える。[23]
- 10月15日 同復儀 22日→成服[24]
- 10月17日 三浦公使 解任 召還(18日)。→朝鮮国駐箚小村寿太郎弁理公使
- 10月19日 朝鮮王朝 閔妃殺害で李周会、尹錫禹、朴鉄及び一族を処刑(李周会は自首、李周会の妻子は田舎に身を隠す。高等裁判所裁判長 張博)
- 10月27日 15歳から20歳までの妃の選抜(揀擇)の公示[25]
- 11月26日 閔妃を平民とした詔勅の取り消し→王后閔氏に[26]
- 趙義淵 李周會 権濚鎮 免官
[編集] 関連の話題
閔妃を題材とした角田房子の小説[29]「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」およびKBSのドラマ「明成皇后」などにより、一部史実とは異なったことが一般では信じられている部分もある。
彼女の生涯をドラマ化したKBSの「明成皇后」が話題になり関心が高まり話題としてあがるようになった。
2003年、従来は彼女のものとされていた肖像写真について、朝鮮王宮の女官を写したものではないかとする論説が発表されたり、彼女を名誉誹謗したとして罰金刑(罪名『死者に対する名誉毀損』)がソウル高等裁判所から作家金完燮に下されたりしたことは話題になった。
檜山良昭は事件当時景福宮にいた日本軍将校(日本で三浦とともに裁判にかけられて無罪となる)の一太刀が直接の死因となったとする推理作品を発表している。(「閔妃殺人事件」中央公論の「ポンパドール夫人殺人事件」に収録)
2001年 出版の韓国金辰明著「皇太子拉致事件」でも暗殺事件が取り上げられている。ここでは残虐非道な日本人が妃を「死姦」したと記述し、根拠として小説家角田氏(参考文献)から示された石塚栄蔵報告書をもとに実話であるとしているが、詳細な資料検討の結果、フィクションであることが判明している。[30]
[編集] 幾つかの誤りと誤解
- 秘密外交文書電報435号
-
- 空想小説『 皇太子妃拉致事件』に出てくる架空の文書。ここには閔妃暗殺の詳細が記載されているとしている。具体的には『日本の浪人が閔妃の死体を屍姦し、死体を焼いて証拠隠滅した』という内容があるとされている。参考までに電報第 435 号(極秘扱)は「中山書記官より広田外務大臣宛電報」(昭和8年10月14日、『日本外交文書』昭和期Ⅱ、第1部第2巻、69 頁)である。[31]
- 角田房子氏の示す閔妃の写真と説明
-
- 「日本人写真師・村上天真撮影の閔妃といわれる写真」
- 「王宮の多くの官女のうち、閔妃とおぼしき女性を的確に捕えたのは、まさに写真によってである。(『韓国写真史』姜相圭、蛍雪出版社参照)」(参考文献 327ページ)
- 脚注及び外部リンク『閔妃の写真はなかった』を参照。
[編集] リンク先
- 閔妃の写真は無かった
- 閔妃殺害事件関係
- 国立国会図書館 日本法令索引
- アジア歴史資料センター
- 日本法令索引
- 帝国議会会議録
- 高宗実録
- 近現代日本政治関係人物文献目録
- 承政院日記 高宗 奎章閣 韓国学研究院(ソウル大学)
[編集] 参考文献
- 「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」講談社学術文庫 (著者:Isabella L. Bird 翻訳 時岡敬子) (講談社 )ISBN 40615934
- 近世朝鮮史 (著 林泰輔)(早稲田大学出版部 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館)
- 「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」(著者:角田房子)ISBN 4101308047(新潮社)
- 「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」(著者:イザベラ・バード , 翻訳:時岡 敬子)ISBN 4061593404 (講談社)
- 「明治100年厳書 288巻 日韓外交史料5 閔妃殺害事件」 (編集 市川正明)(出版 原書房)
- [有馬頼寧関係文書目録] 国立国会図書館専門資料部 (1989/01) ASIN: 4875822294
- 「朝鮮旅行記」 『1895―1896年の南朝鮮旅行』の章 (著者 ロシア参謀本部中佐カルネイェフ、編集:ゲ・デ・チャガイ, 翻訳:井上紘一) ISBN 4582805477 (平凡社)
- 「朝鮮王妃事件関係資料」 国会図書館憲政資料室 (編集 憲政史編纂会) マイクロフイルム 整理番号546
- 「法制局参事官石塚英蔵傭聘ニ付朝鮮政府ヨリ依頼ノ件」朝鮮問題5(公信類) 陸奥宗光関係文書 国会図書館憲政資料室 資料番号 77-2
- 「新聞集成明治編年史 第九巻 日清戦争」(編集 新聞集成明治編年史編纂會) (出版 財政経濟学会) 昭和33年
- 「梅泉野録 近代朝鮮誌・韓末人間群像」 (著者:黄玹 翻訳:朴尚得) ISBN 4336031584 (出版 国書刊行会)
- 「訳注梅泉野錄」(著者:黄玹 翻訳:朴尚得 3巻) ISBN 89-320-1565-1 94900 89-320-1563-5(文学と知性社 mun-hak-kwa ji-seong-sa)
- The tragedy of Korea'' (著者 Mackenzie, Frederick Arthur)( 出版 London,Hodder and Stoughton 1908) LC Call Num: DS916 .M2.(邦訳 『朝鮮の悲劇』( 訳注 渡部学) (東洋文庫 222 平凡社)ISBN 4-256-80222-3.
- 武田範之とその時代 (著 滝沢 誠)(三嶺書房) ISBN 491490649X
- 「近代外交回顧録 (第5巻) 近代未刊史料叢書 (5)」 (著 広瀬順晧)(ゆまに書房) ISBN 4897149908
- 「閔妃は誰に殺されたのか 見えざる日露戦争の序曲」(崔文衡) (彩流社) ISBN 4882028786
[編集] 脚注
- ^ 本貫は、驪興閔氏。KBSのドラマでは諱は紫英ともされているが、明確な資料に基づいたものではない。本来は、閔妃とは閔氏の王妃という意味であり、固有名詞ではないが、近代朝鮮史で「明成皇后」と言えば、この高宗の妃を一般に意味する。
- ^ 光武六年三月七日 韓国官報2141号 宮廷録事 GK17289_00I0079
- ^ 高宗太皇帝明成太皇后祔廟主監儀軌 請求記号2-2218 1921年 http://e-kyujanggak.snu.ac.kr
- ^ 『朝鮮紀行』(イザベラ・バード著 時岡敬子 訳 )における記述(p.441-)「王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。そしてその傾向は王妃の影響力がつよまって以来ますます激しくなっていた。」からもうかがえる。高宗に関しての記述はMackenzie, Frederick Arthur(1869-1931)執筆のThe tragedy of Koreaを参照.邦訳は渡部学 訳注( 平凡社)の『朝鮮の悲劇』を参照。
- ^ 『朝鮮紀行』p.329-332(イザベラ・バード著 時岡敬子 訳 )
- ^ a b c アジア資料センター レファレンス コード:B03050001800
- ^ 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編 原書房刊 文書番号353
- ^ a b c 新聞集成 明治編年史 第九巻 日清戦争期 時事 1986年1月23日記事
- ^ GK17289_00I0006韓国官報 資料請求番号 奎17289 GK17289_00I0006 開國五百年十一月十四日 號外 1. 裁判宣告書 http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GAN/GAN_SEOJILST.jsp?ptype=list&subtype=02&lclass=17289&mclass=&xmlfilename=GK17289_00I0006_0015.xml http://147.46.103.182/OIS/GAN/VIEWER.jsp?xmlfilename=GK17289_00I0006_0015&tablename=KYS_GAN_N_TBL
- ^ 閣議決定案 第317号 1896年 4月 25日 第317号で李周会以外の朴銃、尹錫禹に関しては無罪として、補償金200円を出している。 別紙로 法部大臣이 청의한 朴銑의 伸寃과 尹錫禹의 褒贈과 그 恤金에 관한 건은 朴銑은 무고하므로 伸寃이 가하고, 尹錫禹는 무고에 의한 것으로 그 官을 복귀하고 褒贈과 恤金은 內閣總理大臣이 별도 供議하기로 결정됨이 가함. 朴銑의 伸寃과 尹錫禹의 褒恤 건은 각의 결정한 취지가 있어, 尹錫禹의 恤金은 200元으로 그 유족에게 下付하고 復官 후 貤贈之典은 上裁를 삼가 청하므로 각의에 供함
- ^ 参考文献角田によれば「三浦梧楼が駐韓公使として赴任するとき、すでに閔妃暗殺計画を抱いていたことは、彼の手記からも明らかである。この決意は日本政府が対韓方針を明示しないのなら、自分で自由にやるほかはない"という彼の信念から生まれ、固まったものなのか、またはその底に国家の意思、政府の秘密指令があったのか。あったとする説は多い。その主なものを挙げると先ず井上馨の線である。井上が一時帰国してからソウルに戻った後の王夫妻に対する態度急変を理由として、日本政府と彼との間に閔妃暗殺の密謀が成立していたとし、井上はその地ならしをしたところで、後任に三浦梧楼を推薦し、公使となった三浦がそれを実行した---という説」等を紹介している。他方、朝鮮政府の軍務大臣または大院君が暗殺の計画をたて三浦が協力したという説もある。[要出典]
- ^ 1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告 顧れば今を距る十二年、我国独立問題の為日清干戈を交へ、其結果日本の勝利に帰し、我国独立の基礎を確立するに至りしは、我国民の日本に向て深く感謝する所なり。然るに、不幸にも中頃王妃殂落事件の生ずるあり。夫れ此事たる、勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたるも、其背後に日本の勢力を恃んで此に出たるが故に、国民の感情、自然融和を欠き、日韓両国の情誼稍々阻隔を致すに致りて、又止を得ざりし次第なり。最近に及び、露国の勢力漸進し来りて、我国の独立を危くせんとするに当り、日本は再び戈を執って之と交戦し、結局其勝利に帰し、東洋の平和を克服するに至りしは、之亦我国に於て多大の謝意を表する所なり。
- ^ 亡命後1907年の特赦で帰国、全羅北道長官1916年3月9日に死亡
- ^ 日本に亡命 1907年特赦で帰国、中枢院副賛議・咸鏡南道観察使を歴任
- ^ a b c 電受第75号 「1. 明治29年2月12日から明治29年2月20日(韓国王露公使館ヘ播遷関係一件)」レファレンスコードB03050313400
- ^ a b 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十二日』
- ^ a b 明成皇后殯殿魂殿都監儀軌 奎章閣 Ref. 奎 13890-1-3
- ^ 承政院日記高宗 19年 9月 22日前後にはその後の上訴等が記載
- ^ 梶川光・藤勝顕らが暗殺事件に参加したとされる。
- ^ 梅泉野録には閔妃によると記述。 『大院君邸内火薬爆発ノ件』アジア歴史資料センター Ref.A04010006500には爆薬による爆殺計画と記載
- ^ 4.金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日(韓国亡命者金玉均ノ動静関係雑件(京城説伝) 第二巻)アジア歴史資料センター レファレンスコード B03030201100
- ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年8月20日』
- ^ 韓国官報 号外 開国504年8月23日 にも同じ記載。
- ^ ソウル大学韓国学研究院 奎章閣 Ref. 奎 13885-1-3 明成皇后殯殿魂殿都監儀軌 殯殿都監(朝鮮) 編
- ^ 韓国官報 開國五百四年九月八日 号外 GK17289_00I0004 本月七日에 宮內府大臣이揀擇節次取稟야十五歲로二十歲에至處女捧單라시聖旨奉홈
- ^ 開国504年10月10日 官報号外 Ref. GK17289_00I0005 GK17289_00I0005 詔勅 王后閔氏の其位号を復す。本年八月二十二日詔勅の取り消し。
- ^ 韓国王露公使館ヘ播遷関係一件 公文雑纂・明治二十九年・第九巻・外務省一・外務省一 朝鮮京城事変ノ顛末ニ関シ小村弁理公使ヨリ報告ノ件 アジア歴史資料センター レファレンスコード A04010020500 5画像目/23画像
- ^ 明治29年勅令第204号
- 文武官其ノ他官庁ノ命ニ依ル者ノ外日本臣民ハ管轄地方庁ノ許可ナクシテ朝鮮国ニ渡航スルコトヲ禁ス犯ス者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ処シ二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ附加ス
- 本令ハ発布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
- ^ ノンフィクションという分類に入れる人もあるがフィクションの歴史小説であるという評価の人もいる。例えば、角田の本の表紙にある「「日本人写真師・村上天真撮影の閔妃といわれる写真」は 明らかに誤りで宮中の女官の写真であり、婚礼においてクンモリで臨んだ記述にも誤りがある。詳細な資料収集には優れるが、同一事項に対して複数の資料収集を行い、それらを相互比較し、資料の真偽の判定等を学術的におこなっていないとの批判もある。特に閔妃殺害事件の首謀者、実行犯に関しては、角田氏が出した結論とは矛盾する資料も数多くあり、氏の結論は1つの仮説の1つであるという指摘もある。
- ^ 根拠 国立国会図書館憲政資料室蔵 憲政史編纂会収集文書 外交問題主要事件資料 546 朝鮮王妃事件関係資料 546-1 標題:"石塚英蔵書簡、法制局長官末松謙澄宛" マイクロフィルム
- ^ 韓国人の日本偽史 (野平俊水) (小学館)ISBN 4094027165