阿野全成
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阿野全成 (あの ぜんじょう あるいは ぜんせい、仁平3年(1153年) - 建仁3年6月23日(1203年8月1日))は平安時代末期の僧。源義朝の七男。母は常盤御前。幼名・今若丸。義円、義経は同母弟、廊御方は異父妹、一条能成は異父弟にあたる。
[編集] 生涯
平治の乱で父義朝が平清盛と戦って敗れて殺されたため、幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗る。ほどなく全成と改名し、「醍醐禅師」あるいは「悪禅師」と呼ばれた。
治承4年、以仁王の令旨を受けて異母兄の源頼朝が挙兵すると、京を抜け出しその麾下に入る。武蔵国長尾寺(川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚。保子は頼朝の次男千幡丸(後の実朝)の乳母となり、以降頼朝政権において、地味ながら着実な地位を築いた。
しかし、正治元年1199年に頼朝が死去し、甥・頼家が将軍職を継ぐと、全成は妻の父北条時政・その子義時と結んで頼家一派と対立するようになる。建仁3年(1203年)5月19日、先手を打った頼家は武田信光を派遣して全成を逮捕。全成は5月25日に常陸国に配流され、6月23日、頼家の下知を受けた八田知家によって斬られた。享年51。
全成の墓は、静岡県沼津市の大泉寺に嫡男時元のものと並んで現存し、市の史跡に指定されている。
[編集] 子孫
- 武家としての阿野氏は時元の系統に受け継がれる。その子孫は、南北朝期までは確実に存在したことが記録に残っているが、同じ河内源氏の系統に繋がる足利氏などと比べても、非常に小さな勢力でしかなかった。これは、全成や時元が謀反人として誅殺されたという事実が大きく作用しているが、また別の要因として、源頼朝の弟の子孫である阿野氏が、足利氏などよりも源氏嫡流に近い血統であったため、北条氏から警戒されていたということも考えられる。
- また全成の娘は藤原北家魚名流の藤原公佐と結婚しており、その子実直が、母方の名字を称し、公家としての阿野家の祖となっている。後醍醐天皇の寵愛を受け、後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔である。また、幕末期に活躍した玉松操もこの阿野家の末流に連なる人物である。