高橋進 (陸上競技)
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高橋進(たかはし すすむ、1920年11月17日 - 2001年5月13日)は広島県佐伯郡廿日市町出身の陸上競技選手および指導者(長距離)である。東海大学、国際武道大学教授を務めた。日本陸連終身コーチ。
[編集] 人物・来歴
旧制広島第一中学校(現・広島国泰寺高校)から東京高等師範学校(現・筑波大学)に進み、体育運動学を専攻。陸上選手としては3000m障害で活躍し、1947年から1955年まで日本選手権に9連覇、1951年の第1回アジア大会優勝など輝かしい成績を残す。1952年のヘルシンキオリンピック代表。戦後は当初、地元の広島基町高校の教師をしながら中国駅伝(現・全国都道府県対抗男子駅伝)などで活躍。八幡製鉄陸上部に請われて移籍し九州一周駅伝などで活躍、名ランナーとして知られた。1960年引退、そこで同チームの監督・指導者となりチームの黄金期を築いた。
高橋が指導者となる前年に八幡製鉄入りした君原健二をマラソンのトップランナーに育て上げる。しかし、個性の強い君原とはしばしば衝突を繰り返した。その中で君原も成長していった。メキシコオリンピックの代表選考では、高地では「比体重」の大きい采谷義秋より弟子の君原が有利、と主張。国内選考レースで君原を上回るタイムを出し同郷でもあった采谷を落としたが、結果、君原は男子マラソンで銀メダルを獲得した。また岡山典郎、三村清登(元・デオデオ陸上部監督)、長田正幸ら多くの後進を育てた。
その後は指導の第一線を退き、テレビ中継の解説者や指導書の執筆などを多く行うようになる。女子の長距離種目の可能性に早くから着目していた一人で、初期の女子マラソン普及にも尽力した。テレビ解説は豊富な経験や知識に基づいた内容であったが、しばしば放送上問題のある表現を用いることもあった。(新人ランナーの飛び出しを視覚障害者をたとえにしたことわざで表現したり、外国人選手に対して民族差別につながりかねないコメントをするなど)
1989年、ソウルオリンピックでのメダル獲得がならなかった中山竹通の専任コーチとなる。かつて君原を育てた経験が買われてのもので、すでに彼は70歳近かった。中山は立ち直ったものの、その関係は君原以上にぎくしゃくしたものであったという。
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